ずーっと夢に見ていた風景というものがある。
初めてベルゲンを訪れたとき、自分の居場所を間違えていたことに気づかされた。
奥の方に見えるのが知る人ぞ知るDamsgård
カミッラと旅行に行った際、着いたのは夜の十時を回っており、安宿の手配が出来ず
貧乏ナポリ学生の私たちは野宿を決め込んだのも覚えている。
富の配分がうまく行っているため、スリや強盗といった金銭目的の犯罪は少ない。
週末のナイトライフ学生も多く、かなり安心して街歩きをしたのだが、
カミッラの意の向くままに歩き続けてていると、小さな木の家が密集した地域に入りこんだことを覚えている。
そこで理想的な幸せな風景に出会い、胸が締め付けられた。
それは私が最も"帰りたい"シーンであった。
宿がないことが少々気に掛かっていたことや地図がなかったため、
その場所の特定が出来ないままになっていたのだが、
今回は一人旅、思いっきりナルチストになろうと、とにかく歩いた。
ベルゲンの中心街、奥に見えるのはヨハネス教会
バスでオールセンからフィヨルド沿いを走って10時間、
やっと着いたベルゲンは以前と変わらず、ホステルにも簡単に辿り着けてしまった。
週末ということで、小旅行中の若い子と同じ部屋をあてがわれたが、
以前のようにメールアドレスの交換をするほど会話も交わさず、
昨晩の12人部屋一人占めに比べて部屋があまりにも小さかったので
翌朝別のホステルに移ることばかり考えながら床に就く。
朝が来て、出発前に買っておいたバナナとテルモスのコーヒーを飲んで、
朝のベルゲンを散歩、曇り空とつめたい風、ぱらつく雨に幸福感を覚える。
荷物を取りに戻ってきたホステルでは鍵の調子が悪く、部屋が開けられなくなってしまい、
夜行で着いたイタリア人(しかもナポリ人!)と話しながらアシスタントの到着を待った。
ここまで来てイタリア人と会いたくねーよって思いつつも、相手の狼狽する様子や、
他の宿泊客の驚異の目はある意味おかしかった。
見た目が東洋人なのに、こんなところでイタリア語話していること自体すっごく変てこに見えたのだろう。
土曜日のベルゲンは家族連れが散歩したり、怠け風味の学生さんがブランチしてたり、
フレデリク砦では軍楽隊の野外練習が行われていて、雪国の暗い雰囲気はまるで感じない。
少し歩けば海が見えるし、フィヨルドの沿岸と雪に覆われた集落、
小さな木の家が密集している地域のノールネスの急な坂道や色とりどりの家に
戻ってきた感覚を強く感じさせられた。
逆に観光名所であるブリッゲンは閑散としていたし、魚市場も夏季に比べて随分縮小されていた。
中心街へ向かい、どこかで腹ごしらえをしようと人でごった返しているパン屋へ。
このパン屋では土曜日限定シナモンロール10クローネ(130円)セールをやっている。
南イタリアではお目にかかれない爺さんや子供だけの客も多く、
金髪の若い男の子にドッキリしながら列に並ぶ。
前に並んでいた子供が新聞折り込み広告のクーポン券を持っていたが、
イタリアではないので"見せて"なんて気軽にはいえない。
何かを食べるのは胃袋を空にしないためにしているようなもので、
私の気持ちはかなり火照っていた。
この日は別のホステルに移動したので、身の回りの整理に一度戻ると
フランス人の女子達が昼まっから寝ていた。
挨拶以外は交わさず、日が暮れかかった頃にまた出だす。
基本ルールとして、ホステルでは共同スペースで誰かに出くわしたなら、
挨拶はするのが礼儀だったのだが、時代が変わったのか、返事が帰ってくることはほとんどなかった。
その上、買い物袋に入れて冷蔵庫にしまっていたはずの
私の食料が食べられるという事件も起こった。
名前と出発日までしっかり書いておいたのに!
しかも"今は私たちが台所を使っているから入ってくるな"という傲慢なスペイン人グループまで・・・、
そんなこと、ベルゲンがきれいだからどうでもいい。
まだエスプロールしていない地域へ散歩に出る。
駅裏の墓地や、らい病博物館、引き返して駅前を横切る道をまっすぐ、海に向かって歩いていく。
グリークホールや映画館、その裏手には劇場もある。
疲れているけど、坂道を登ってもう少し散策。
しばらく道沿いに進んでいくと、細い路地にひしめき合う木造住宅の地域に出た。
やわらかい照明が漏れる窓やそのミニチュアな家に、
懐かしい感じを覚えた、"デジャヴュー"ってやつか?
きっと私の前世はこの辺で生まれて、リーセ修道院に送り出されたアマヌエンセ(写学生)
だったに違いない!って盛り上がってたら、赤いレンガのヨハネス教会が見えて、
以前カミッラと散歩して死ぬほど感動した地域だったことがわかった。
その言葉通り"デジャビュー"だったわけです。
オスロを歩いているときは言葉の不自由さを感じなかったためか、
千葉の街を歩いているのと全く同じ感覚だった、あまりの違和感のなさがある意味心地よかったのだが、
ベルゲンの魔法とも言うべき、美しいフィヨルドと雪、木造住宅と窓からの照明は
なんてことのない冬の一日をここまでドラマチックに演出してくれるのだ。
半地下になっているアパートの台所では暗い照明の下、
本とノートを広げて勉強している金髪娘がいた。
私にはいつ、こういうシュチュエーションが訪れてくれるのだろうか?
手にしているカメラが氷のように冷たかった、翌朝は早起きして朝の街を撮ろうとホステルに戻ることにした。
興奮して全く眠れず、10時ごろ外出したフランス人が夜中に戻ってきて
割と騒々しい音を立てて寝支度するものしっかり聞こえた。
6時になったので起き上がるが、外はまだ暗い。
やけに明るい土曜日と一人の日曜日、歯ブラシ銜えてオムレツ焼けない私に
交通事故のようなショックを残したベルゲン。
Kings of convenience 知ってたらMP3にフリッパーズギター入れていかなかったんだけど・・・。
彼らの活動初期(再活動?)の曲、Faillreにはベルゲン要素がたっぷり詰まっている。
日の当たるところにいたいという気持ちをベルゲンの雨にたとえて表現しているのだ。
この歌聴きながら自分の失敗に少し前向きになることを今こそ、考える。
ベルゲンの分別ゴミ箱すら愛しい、ここにごみを捨てに来られる日はいつ?
出会いと別れはいつだって悲しい要素であると考える、
お別れが辛いから、出会わないほうがよかったと思うことはよくある。
こんなことになるなら、なかった方が良かったと思うことは
男女のお付き合いではよくあることであろう、
私はそういう気持ちを避けるべく、イタリアに来てからは拒否のバリアを張って生きてきた。
男女のお付き合い以外だって、
日本を出発するときの家族とのしばしのお別れに、いつだってイタリアに在学を決意したことを後悔する。
その辛さは言葉には出せない、もう何回も繰り返しているはずなのに慣れることはまずない、
税関の通った後、トイレで大泣きするのが習慣だが、家族の前では余裕こいている振りをしている。
逆に日本に帰るときはカルメンとのお別れに涙する。
今回の一人旅だって、オスロに残してきたカミッラとのお別れが辛くてたまらなかったのは事実だ。
一週間後には会えるのに、そのしばしのお別れはまるで懲役刑だ。
ベルゲンに家がなく、どこか他のところに帰らねばならない辛さ、
喉下にこみ上げてくるこの悲しくて虚しい気持ち、だったらベルゲンに出会わなかった方が良かっただろうか?
その答えはノーだ。
辛かろうとベルゲンに出会えたことは自分の宝物だ。
それがどこかの素敵な金髪ボーイでなくて残念だが、ここ数年の自分哲学を覆された。
ベルゲンは自分にヒューマニズムを取り返させた少々強引な街である。
そのせいか、いつもはあまり興味のないスウィーツも足りない何かのかわりに随分食べたくなった。
パンにチョコレートのディップをこんもり乗せて食べたり、スーパーに行けば、何かしらチョコが欲しかった。
イタリアに戻ってきてからもこのショックと自分ルネサンスに少々戸惑っている。
不思議なのは今まで以上に街端の男性諸君(高校生)がうるさいことである。
彼らは他人の心の開き具合がわかるのだろうか?
更に、今まで興味のなかったミルクチョコレートの消費量も恐ろしい。