十字軍遠征は聖地奪回という名目の下、
あまり御行儀のよい行為も数多く行われてきたことは周知の事実であろう。
実際、何がここまで民衆を掻き立てたのか、一種の集団催眠術であるとも言われている、
私の興味でオカルトサイトを検索したなら世界の怖い話には必ず話題として上っている。
それでは少し、この経緯について話し始めてみよう。
期間: 1096~1279(11世紀から13世紀)にかけて9回
参加者: 貴族から傭兵、農民などあらゆる階級のものが参加した。
教皇公認でない私的な遠征軍も数多く、その場合は公的でないとして、遠征の数には記録されない。
教皇: ウルバヌス2世、グレゴリウス8世、インノセンティウス3世、オノリウス3世、グレゴリウス9世。
9回の遠征のうち、成功を収めたのは第一回のみであり、そのうち聖地奪回という目的は薄れて行き、
私欲に走った騎士たちによる強奪が目立つようになる。
すべての経緯を書き出すのは気が遠くなる上、退屈なので、
ここではダイジェスト版でいくつかの事柄を紹介しようと思う。
初めての大虐殺が行われた。
参加者にはトゥールーズ伯のライモンド、ボードゥアンのゴフレッドや
南イタリアのノルマン人、アルタビッラ家のボエモンという諸侯も参加。
彼らは送れて戦地へ赴くのだが、ボエモンの頭を使った買収作戦が突破口になり、
無敵だったアンティオキアの城壁を破り、ここから一気に聖地奪回に成功する。
最初の参加者は農民や政治が安定したため、仕事の減った傭兵たちであった。
ガイドや指導者がいなかったため、聖地に着く前に力尽きるものも少なくなかった。
生き残ったものはエイムスの隠者ピエールとともに王侯貴族による十字軍の本隊を待ったといわれている。
その領地はフランスを見本としたそうだ。
それに危機感を感じた教皇エウゲニオス3世は第二回目の遠征として群を送るが失敗に終わり、
聖地は再びイスラム勢力のものとなった。
第三回遠征ではフリードリッヒ赤ひげ王やリチャード獅子王、フランス王フィリップ2世が参加、
赤ひげ王はサレフ川で溺死している。
同時期、少年騎士団(1212)なるものがエルサレムへ向けて出発したものの、悲惨な最期を遂げている。
この隊のリーダーはフランスから来た羊飼いの少年とドイツ出身10歳に少年だったとされる。
少年少女たちをここまで聖地奪回に掻き立てたのは"脱・貧困"であったことや名誉が関係している。
オカルトサイトでは集団催眠術説を説いているが、こればかりは文献がないので裏づけできない。
第五回目、南イタリアが誇る友愛と勉学の皇帝フリードリッヒ2世による、私的訪問。
既に教皇から破門されていたフリードリッヒは話し合いによる聖地の引渡しにかかる。
彼はアラブ語及び6ヶ国語を話し、武力でなく、言葉で戦いに応じた近代的な権力者であった。
当時2つに分かれたいた政治派閥の反強硬派により、遠征を中止させられた。
十字軍遠征の時代、独自の騎士団が結成され聖地奪回や異教徒のキリスト教化に努めた。
下記の騎士団はもともとは修道士、神に身ををささげた僧が訓練を積んでフィジカルにも優れた騎士団だ。
このように、約3百年にわたって遠征し続けることが出来たのは
時代と人民によるメンタルな部分を抜きにしては話せない。
ヨーロッパ諸国の政治事情は以前よりもずっと安定していたし
フランス: カペー朝
ドイツ: 公、伯領、君主の選出は世襲制ではなく、選挙制
イタリア: (北)地方自治権の出現、(南)ノルマン人、スワビア人による安定した政治
政治が安定すると戦争で食べていた傭兵が失業し、仕事を求めるため、
十字軍遠征は良い派遣先であった。
訪問するのが一種のステータスだったので、このブームにより、あまり戦争とは縁のない
階級のもの(農民など)や女性、貴族の次男坊などが、十字軍を口実に聖地へ巡礼へと向かった。
貧困からの脱出を目的としていたものも多い、
農民など、働いても生活が楽になることは難しかった時代背景から、
金銭目的で出陣するものも多かった。
名家の貴族様方は十字軍に出陣するに当たっては
宗教的な意味合いや名誉を期待していた、
キリスト、神の意の向くままに、彼らは神のために志願したのである。
初めは清い気持ちで攻略していったものの、途中から金銭目的に変わってしまった
この遠征では、後に清貧思想を駆り立てることとなる。