ナポリの小枝とノルウェーの切り株

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中世ラテン語文学 中世前期まとめ

中世ラテン語の定義
ラテン語はローマ時代からの名残として当時の支配層、または教会関係者間で交わされる
書簡に使われてきた文語にゲルマン民族諸語が混じり、
中世ラテン語が完成されていった。

文学と出版について
グーテンブルグの活版印刷まで、書物のコピーは手書きまたは木や銅版に彫られた器具を利用していた。中世という時代、文字の力は読める人たちだけに与えられた特権であった。
よって、不安定な政治状況からごくわずかな人たちによって作られ、読まれていった。
商業目的の大量印刷は在りえなかったということである。

6世紀
政治家になるための勉学、トリビオ、クアドリビオといった文系、理系の7教科をラテン語
習得したものが当時の支配層、または教会の聖職者たちによる出版物が見られる。

ボエティウス、カッシオドーロ
両人とも東ゴート族の王、テオドリックの執行官である。
哲学作品、ゴート人の歴史など、キリスト教と関係の無い作品も残している。

大グレゴリウス
教皇。勉学に長けた彼は政治家になるより神に身を捧げる一生を選ぶ、
イギリスに布教のための使いを出したり、イタリアに進出し始めたロンゴバルド族を
カトリックに改教させるなど、この時代、カトリックの優勢に貢献する。
聖人の功績と自分の意見を添えた”ディアロジ”や聖書への注釈(”モラリア・ディ・ヨブ”など)が彼の主な作品である。

7世紀
ゲルマン民族が領地の基盤を築くと同時に各地でカトリックを基盤とした教会が勢力を増す。
経済的に破綻しているイタリアを尻目に大グレゴリウスの送った使節団がイギリス南部、カンタベリーに司教区を築く。また、西ゴート族、スワビア族など、イベリア半島に居座るゲルマン民族カトリックへと改教した司教たちの功績が顕著となる。
作品の多くは諸聖人の功績を称えたものや死後の世界を語るビジョン文学の製作が盛んとなる。

セビリア司教イシドロ
同じく司教で兄のレアンドロは西ゴート王、シセブートをカトリックに改教させた人物である。
イシドロの著作ではゴート族の歴史や20巻もの百科事典があげられる。
後者は当時の用語解説や生活を知る重要な手がかりとなっている。

ブラガのマルティヌス
バルカン半島よりパレスティナを巡礼、イベリア半島に辿り着き、現在のポルトガルに多くの修道院を建てる、スワビア族の王、カリアリコを改教させる。

マルメスベリーのアルデルモ
イギリスに派遣された使節団の築いたカンタベリー修道院に就学。
キリスト教に関する当時のイギリスは出遅れていた。
隣国アイルランドでは聖コロンバヌスの布教活動などに見られるように、教会活動が活発だったのに対し、それを輸入せざるを得ない状況であったイギリスを救った人物がこのアルデルモである。
ブリテン島にいくつかの学校を設立し、多くの文豪を輩出する。

8世紀
ゲルマン民族の大移動はひとまず収まる。
注目すべきはカール大帝による芸術の復活である。
自分の宮廷に文才達を集めたり、学校を建てたりと文字の力をよく理解していた。
また、古代ローマ文学の写本をオーダーしたのも彼である。
その中でもロンゴバルド族の歴史を書いたパオロ・ディアコノや宮廷学校で教鞭を振るい、皇帝の教育相談役として活躍したアルクイーノ。前者はロンゴバルド族出身で聖ベネディクトゥスの築いたモンテカッシーノで生活していた。後者はヨーク出身、恩師の指示により皇居アーヘンへと送られる。
カロリング朝の少し前、8世紀前期には未だにキリスト教化していないフランク王国東側へイギリスからの使節団が訪れ、アッシア、チューリンゲン、フルダなどに司教区を置く。彼らは前出アルデルモの教え子達でもある。デヴォン出身のビンフリッドはドイツへ出向いた使節団の一人である。イギリス、アイルランド出身の僧にとって最初の問題はラテン語である。
ローマ人ではない彼らにとって、ラテン語は勉強すべき最初の壁なのだが、母国語に勝るものは無く、アクセントのつけ方など、メトロ法で詩を書く上で重要となるリズムをつけることは困難を極めた。
そういった問題を解決すべくアルデルモやビンフリッドにより"簡単ラテン語文法"なる本が書かれている。
ビンフリッドを同期のベダ、タットゥウィンもイギリスを代表する文才である、特にベダは聖書の注釈や殉教聖人伝、イギリスにおけるカトリックの歴史を残している。

9世紀
カール大帝戴冠式と世代交代。
イギリス人宣教師達によって土台が築かれた、
フルダの修道院から数多くの文豪達が宮廷へと進出する。
カール大帝の死からルードビッヒ1世へ世代交代、大帝の伝記物語が書かれる。
中でもエジナルドによる”Vita Karoli Magni”が有名だ。
教会での地位争いや、宮廷への点数稼ぎが争いを始める、
ラバーノ・マウロの教え子、ゴテスカルゴ、ワルフリッド、ルーポ・ディ・フェッレなど
フルダを中心に輩出された者達である。
この時代は未だに古代文学からインスパイアを受けたり、それを借用したりと、
オリジナルな作品より古代文学作品の使いまわし、または復興が目立った。
10世紀にはいると一変してオリジナルな作風が増えていくのであるが
海の民、ノルマン人の侵略が始まり、沿岸部の街が危険に冒されるのである。

10世紀
聖人伝や歴史物の需要が増えたこの時代、文化の中心はフルダからクルニー修道院へと
移っていく。そして政権はカロリング朝からカペー朝へと移り、神聖ローマ帝国の帝王もザクセン公のオットー一世へと委ねられる。

例外としてオッドーネによるジェラルド・アウリラック伝があげられる。
聖職者でないものの伝記を書くことは全くを持って風変わりな時代であった。
エッケンペルトによるロンゴバルディアの歴史、
おそらく最後のロンゴバルド族による記述であろう。

女流作家ロスビータガ頭角を現す。
女性の作家はこれまでエイデンへイム修道院のシスターウジェブルダのみであった(8世紀後半)。
ザクセン領のガンデルシェイム修道院で筆を取る彼女の作品は
ザクセン王、オットーネ1世の生涯を1537行にて綴ったものやガンデルシェイム修道院の歴史を595行にて描写した作品を残している。
他にもジルベルト・ディ・アウラリック、リケーロ・ディ・レイムスなど、聖人伝や歴史ものを綴ってきた。
この時代は中世の区切り、千年紀の終末思想が世間を騒がせた時代でもあった。