民族も文化も独自のものを持っていたこの地域、いったいどのようにキリスト教が伝来して行ったのだろうか。
文献によれば、西暦400年以前、僧マルティーノ・ディ・トゥールが最初のミッションであったとされている。
アイルランド人はすでに信仰心を持っていたため、彼はここに司教として残ることとなる、
この場合の司教は意味合いが少々異なる、なぜなら、当時のアイルランドには街の形成がなく、
司教区といってもそれを司る地域がなく、司教という地位の存在自体にも西ヨーロッパのそれに比べて、
あまり意味合いを持たなかったのだ、その代わりに修道院長という役職に対して大変な価値があった。
その名を現在もなお、残している。
奴隷時代に身に付けたゲール語がこのミッションに参加させられた要因である。
地元言語を話す彼の功績は輝かしく、島民全員がカトリックに改教したといわれる。
彼の伝記文献には多少誇張された部分があるにしても、伝説として残されている事実は無視できない。
6世紀に入ると、修道院には多くの聖職者志望の僧侶で盛り上りを見せる。
神学者や聖人を多く持つ、この島は"学者の島"、"聖人の島"という異名で呼ばれていたほどである。
8世紀半ばまでこのような修道院文化の黄金期は続く。
大陸のそれ(後に大グレゴリウスによるベネディクト派の修道院規則)とは異なり、
特に懺悔や禁欲における教えは厳しく、修道院の外でもその生活が促進される。
のちに教会会議の決断により、大陸のそれに変えられることと成る。
また、非婚や一日の時間割などは大陸から伝来し、受け入れてきたのもこの黄金期時代である。
告解の義は一生に一度だったのだが、これもこの黄金期に聖餐の前に行う習慣に変わった。
このように教会は民衆にも教会関係者程ではないにしろ、厳しいルールを義務づけ、
"懺悔すべき罪録"成るカタログを製作し、それが罪であるかを探るに役立っていた。
まだモラルは形成されていない時代である、
これは中世から現在至る西洋人の常識を作ってきたといってよいだろう。
この黄金期に試みたのが、人間のアンビション、この教えを広めるべく、大陸へと足を伸ばす。
民衆は異質なものを覚えつつ、彼らのお説教に耳を傾けていった。
急ぎ足でまわったミッションは触る程度にしか教えを説く程度だったが、
とても役に立った、一度、耳にした情報を繰り返し、もう少し深いところまで持っていくのに時間がかからなかったのだ。
コロンバヌス・イル・ジョーバネ(530-615)
民衆に受け入れられた彼のスタイルはアングレイ、ルクセウリ、フォンテインに修道院を建てることに成功する。
その内、フォンテイン修道院のみ厳しいコロンバヌスの戒律が採用されるのである。
なぜなら、当時のフランク王であったセドリック2世とその祖母に当たるブルニルドに反感を買い、
ルクセウリの修道院を後にすることとなったのだ、彼ら既にローマとの結束が強かったため、
島の規則を採用することに抵抗があったことは、前記事に記したクーヴィスの洗礼編でお分かりいただけよう。
その後、新たなる自己表現の土地を見つけ、偉大なるボビオ修道院を築く。
イタリア中北部に位置するコスタンス湖畔に建てられたこの修道院は彼の終焉の地でもあった。
このアイルランド人宣教師団による功績は大きく、まだ、政治的に勢力を広めていたローマ教会と違って
その目的が民衆のために天国の門を開けることであり、
その注目すべき点は貴族や権力者ばかりでなく、一村民にも説いて回ったという点にある。
実際、彼らの行動が、集団洗礼によって、分けもわからずキリスト教徒となったパーガンに
知識を与えることとなり、更なる理解の下、修道院建設が行われ、営まれていったのだ。
次回は第一時期最終回ブリテン島。