初めに歴史の勉強をするに当たって、年代丸暗記法という最後の手段が残されているのだが、
歴史を聞いてそれだけが手段のように思われがちなので、
今回は冒頭に有効な歴史の勉強法を書き出してみようと思う。
歴史の年表が頭に入っていると勉強に役立つが、ひとつ欠けるとすべてが崩れ去るというリスクがある。
そこで私はできるだけ時代の流れを重視した勉強法をしている。
勿論、すべてを覚えるわけには行かないので、大まかでよい。
得意分野の南イタリアは歴史が複雑で知られているが、流れを追っていけばそんなに難しく構える必要はない。
ときの支配者が変わる年代はざっと覚えておくべきだ。
要点はそれだけ、歴史は誰にでも勉強できる門の広い学問だ。
本題に入る前に
フランク王国は現在のフランス、ドイツに当たる土地
この時代はカロリング朝
西側へ追いやることに成功したが、この時代のイスラム勢力には防衛に回り、土地の死守にあたる。
混乱を避けるためにざっとまとめてみました。
文芸に強い興味を示し、宮廷学校を創立し、多くの文才が育っていった、そこにはトマス・アクイナスやパオロ・ディアコノなどの著名人がいる、また、フランク族で始めて定住の地を設けた王でもあった。
カールと最も関わりがあった教皇はレオ3世(?-816)である。
ここで前回書ききれなかったピピンについて注釈を入れたい。
ローマを中心とするイタリア中部の土地を教皇に返還した人物である。
ローマ帝国崩壊以降のイタリアはゴート人に占領され、残りの土地(特に中南部)は生き残りに成功した東ローマ帝国の支配下にあったのだが、ロンゴバルド人の侵略により、東ローマの土地であったローマ周辺までも奪い取られてしまった。
この歴史的事実を"聖ピエトロの遺産"と呼ぶ。
カールの時代、イタリアはカトリックに改教していたロンゴバルド族に占領されていたのだが、
この民族の野望はイタリア征服であったため、教皇領の取り返しにかかるのだ。
ここでロンゴバルド族に注釈を入れさせていただきたい。
少々ややこしいのだが、この民族はバルカン半島からイタリアへやってきた、
もともとはスウェーデン起源だとも言われているが未だにはっきりとした考古学的証拠はない。
イタリアへ侵攻してきたのは北からであった。
また、南イタリアにも彼らの支配跡が残っているのだが、こちらの方は侵攻というより移住である。
ゴート人、サラセン人に荒らされていた南部は東ローマからの援軍により何とか危機を免れたのだが、
この援軍にはロンゴバルド族の傭兵が数多くいた。
彼らは新天地を求めて徐々にイタリアへ移住していき、その土地の領主となったのだ。
戦力で侵略した北の土地は大ロンゴバルドゥムと呼ばれ、
移住によって領土を獲得した南を小ロンゴバルドゥムという。
北側のロンゴバルド人は要注意民族であった。
力でイタリア全土を征服使用と、少しずつ南に足並みを揃えていたのだ。
王デシデリウスは戦闘能力の高いフランク族を味方に付けようと縁婚関係を結ぶことに成功した。
娘をカールの婚姻者として送り出し、ここでローマ、すなわち教皇領奪取にかかったのである。
残念ながらカールは教皇側に着き、縁組を組んだデシデリウスの首をきることとなるのだ。
神聖ローマ帝国の皇帝というタイトルを受けたのである。
このタイトルには勿論、裏があった。
"教会はすべてにおいて最高権威があり、世俗の権力者もろもろ、教皇に逆らうことは出来ない。"
一方カールはこのタイトルを"東ローマ帝国皇帝と並んだ"と思っていた。
東ローマはこのタイトルを認めない意思を表明し、教会もまた、カトリック世界をは違う組織を組んでいく。
名前だけのタイトルだが、信心深いカールには大きな価値があったことも忘れてはならない。
しかしこれは教皇による東側からの独立宣言をも意味していた。
そのため、全く知識のないものが選ばれたり、政治的に利用されたりすることも多かった。
一方、南のロンゴバルド族はフランク族に降伏したが、土地は取り上げられることのないまま、
1027年、ノルマン人による侵略まで生き延びるのである。
カールの死後、フランク王国はあまり有能でない息子に渡り、その後は3分割されるという道をたどる。
カールが築いた神聖ローマ帝国は100年もたたぬうちに現在のドイツと北イタリアに縮小される。