ナポリの小枝とノルウェーの切り株

ノルウェー、ヴィーガン、猫とおそ松さん

ベネディクト修道会 派生

西洋におけるキリスト教を語るに当たって、いくつかの修道会とその戒律を紹介せずには
ただの歴史的出来事を並べているだけに過ぎず、触った程度のことしか書けないので
ここで少々、いくつかの修道会について触れておきたい。
 
ローマン・カトリックにおいて最も古い伝統を持つベネディクト修道会、
この修道会はキリスト教の歴史において、重要な始まりを意味する。
 
観想修道会というのが日本語の適度な表現であろうか?
修道院に集団で住み、そこで祈りと懺悔、自供自足の生活を送る修道士たちのことだ、
イタリア語ではチェノビティズモという。
チぇノビティズモという言葉はギリシャ語で集団生活を意味する。
 
それ以前の僧たちはいわゆるヘーメット、隠者として
単独で祈りをささげ、極限状態のまま神に対する信仰心を自ら試し、
そのために自分の人生をささげるというものであった。
この形式は中近東で始まり、流布して行く、
その一人であった聖アントニウス、すべての欲を捨てて神に祈る彼の伝記を聞いたことのある人も多いだろう。
 
観想修道会はもっと身近で西洋における宗教や文化の発展に大いに貢献している。
そもそも4世紀には始まっていたこの形式は、
6世紀初め、ベネディクトにより始められ、その友人であった教皇グレゴリウス1世(聖グレゴリウス)
により正式な認可が下され、その戒律は西洋世界に広くひろまっていった。
 
 
 
ベネディクト修道会(Ord Sancti Benedicti
創始者: べネデット・ディ・ノルチア
創立: 529年
創設地: モンテカッシーノ修道院
戒律:聖ベネディクトの戒律(Regola Benedettina)
そこから派生した修道会: クリュニー修道会、シトー修道会、カマルドリ修道会など
 
もう少し詳しい説明をつけたい。
 
創始者であるベネディクト・ディ・ノルチアという人物
 
彼の人生は5世紀終わりから6世紀の前半まで、時代背景は古代ローマ帝国の終焉とロンゴバルド族によるイタリア侵攻、そしてゲルマン民族カトリック改教と様々な動きを見せる。
それもその一つ後の時代に来るべき教皇、グレゴリウス1世の功績が一役買っている、
この2人は西洋世界にキリスト教を決定付けた最強デュオとも呼べる。
 
フランスではフランク族メロヴィング朝が、イタリアでは南はビザンチン帝国(東ローマ帝国)、北はゴート人、その後はロンゴバルド族と外国勢力に支配されている。
その他の地域ではパーガン、またはアリウス派ゲルマン民族が居座っている状態であった、
政治的にも宗教的にも不安定であったといえよう。
 
さて、ベネディクトはイタリアの中部、ウンブリア州にある小さな街ノルチアで生まれた、
古代ローマの貴族であった父親を持ち、ローマで執行官のなるための英才教育をうけるが、
神に身をささげることを決意する。
隠遁生活を送る後、自活に目覚め、それが観想修道会を作るきっかけとなった。
 
ローマの階級制度をご存知の方なら説明抜きに理解していただけるであろう、
ローマ貴族出身とあらば、奴隷に仕事をさせその利益で十分生きていけるのである、
そんなベネディクトが親の敷いた線路を無視して、自ら労働を買って出るという行為は尊いといえよう。
労働によって得る生活の素晴らしさに祈りと神との会話を足した観念に
共感するものたちが集まり、いくつかの修道院が造られた。
 
そのうちの一つ、モンテカッシーノ修道院はローマからカンパーニア地方、カプアに近いカッシーノ
建てられた。この修道院では理想とする修道院生活を規則として書き残している、
これが現在に至るレゴラ・ベネデッティ-ナである。
 
この規律はモンテカッシーノ修道院以外でも使われ、教皇グレゴリウス1世により法律化された。
そのため、この法律の下、修道生活に励むものたちがヨーロッパ中に広まり、
当時同じく勢いのあったケルト生まれの修道会コロンバヌス派の戒律まで破棄し、
ベネディクトの戒律に従わせることなる。
そこまでさせたこの戒律は以下の通りである。
 
修道僧について、修道生活についてのオリエンテーションから始まり、
修道士見習いにその心得と日常における生活の細かい部分、とくに典礼について詳しく書き残している。
ここで注目すべきは修道院長の絶対的な権限とそれに従うことである。
その理由として、集団生活における平和の維持に一人のリーダーを必要とすることであり、
それが"キリストに代わって"その行使の権利を持ち、また従う方の者もそれを美徳をして受け取りべきである
というものだ。
 
見習い修道士
見習いに来るものは1年の修行期間を必要とし、その内容もこの戒律に書かれている。
最初の2ヶ月は神についてのQ&A、キリスト教世界における美徳と悪徳を繰り返し勉強し、
最後に試験が待っている。
ここで通過したものは更に六ヶ月、本当に神に身を捧げたいかを良く考える、
続けたいと希望するのであれば、更に四ヶ月、最終的に誓いを立てるまでこの思考の労働が続けられる。
 
修道士の日常
時間の割り当ては夏季と冬季でいくつかの違いがあり、時間の計り方はローマ時間法(0時を一日の始まりとし、日時計によって測定する)を利用していた。
そのため、現在の時間に割り当てる必要がある。
 
一日の始まりは午前1時~3時、修道院内の教会でVigiliaという夜の祈りを捧げる
ほぼ90分のあいだサルムの一遍を読んだり、祈りを捧げたり、聖書の読解、
そして(夏季のみ)日課の仕事をこなす。
 
朝日が昇り始める頃、日曜日に限って聖書の読解(Lectio Divina)やミサへ参加し、
午前10時から12時ごろ、ミサを終えて、祈祷の時間へと突入する。
 
その後、復活祭前の40日以外は食事が賄われる(夏季12時、冬季14~15時)。
 
食後、各自の仕事に戻り、夜の祈りまで(夏季18時冬季16時)まで労働が続けられる
(夏季は15時のお祈りの時間をはさむ)、復活祭前の40日は17時ごろに聖書の朗読も行われる。
 
夏季には夕食も出されるが(18時~19時)、冬季は一日の終わりの任務である聖歌を歌って、そのまま就寝。
 
一日に使われる時間の割り当てを平均して書き出していくと:
聖書の朗読、読解(お祈りを含めるともっと長い) 3~4時間
労働 6~7時間
食事、睡眠時間 8~9時間
 
修道士の修道院内での仕事内容
 
1、修道院内の一般業務
①清掃
②院内で使われる農具、家具、食器の製造
③修道士に与えられる衣服の縫製
④食事の準備(一週間交代ですべての修道士にあてがわれる)
 
2、書物の読解、写本など
 
3、農作業
修道院内で消費される食物の生産、保存食などの製造
 
食事事情
量的には満足のいくものであったが
食事の回数は復活祭前の40日と冬季では一食のみ、夏季は2食が基本であった。
その内訳は暖かい食べ物2皿に季節によって果物やナッツ類が振舞われる。
ワインも一人当たり半リットルほどたしなむことが許されていた。
 
イタリアの食事事情の基本になったものはここから来ているのではないだろうか?
イタリアでは昼食にパスタ、米料理と肉、魚料理の2皿が振舞われる、
そして夜はありあわせの保存食とパンで済ませることが多い。
 
ただ、考古学資料として、南伊にあった中世修道院跡では
ゴミ箱及び、記録文献の研究に当たったペドゥート教授による
興味深い本を読む限り、修道士の食生活はほぼ、菜食主義であったことがわかっている。
鉄分、プロテインの補給にはソラマメなどの豆類が主で、ほぼ毎日のようにテープルにあがっていた模様だ。
にんにく、たまねぎ、キャベツ、カブ、そしてチーズなどの乳製品にパンが毎日の食事として振舞われていたようだ
カブは現在でいうジャガイモのように使われていた食材である、
コロンブスアメリカ大陸到達まで、ジャガイモは存在しなかったため、
カブは修道士たちの胃袋を満足させる大切でかつ、便利な野菜であった。
 
寝床
共同生活をする彼らは寝食を共にする。
大部屋に用意された各自のベッドは藁を集めてシーツを敷いた"ハイジのベッド"である。
掛け布団1枚と枕が割り当てられていた。
 
衣服
夏季: 2つのチュニックに2つの頭巾があてがわれる
冬季: 夏季の制服にビロードの重い生地で作られたチュニックがあてがわれる。
この修道会ではタイツをはくことが許されていたが、足元はサンダル履きであった。
 
こういった修道士の日常は人里はなれた土地に住むことを基本概念に
取り決められている、さらにはその生活条件は南イタリアに適しているといえよう、
ベネディクトは修道士たちに農民生活を基本とした修道院生活をさせたため、
彼の創設した修道会は都市部よりも田園地帯で広まっていった。
 
興味深い教材として、イギリスのテレビシリーズ"修道士カドフェル"を薦める。
13世紀のイギリス南西部の修道院に生きる風変わりな修道士カドフェルの探偵ドラマ、
ベネディクト派の修道院の細かい部分が復元され、とても示唆的である。
 
 
 
ベネディクトの戒律と謎
73章にもなる戒律には修道院の細部を知る良い文献となるのだが、
例えば、修道院長の選出や仕事の分担など当時の生活を知る良い資料であるが、
勿論、インスピレーションを受けたと思われる文献がある。
 
マルシリアの聖ビクトル(112)
聖アウグスティウス(43)
聖パコミオ(28)
ルフィーノ訳、エジプト僧侶の歴史(28)
聖バシレウス(22)
 
カッコで囲った数字は引用の数を表す。
 
書き記されたのは530年以降といわれているが、本人によって書かれてるかという問題もある。
彼の少し前の時代に"Regula Dominus"という書物が存在する、作者は不明で内容はやはり修道院生活の規則をつづっているのだが、その形式が大変、ベネディクトの戒律に似ているのである。
 
現存する2つの書物の年代測定を行ったところ"ベネディクトの戒律"の方が前に書かれていたことがわかった、
 
しかし、10年ほどのズレがあるにしてもこれほど類似した形式の草書が、
ほぼ同時に存在するというのは考古学見地から同一人物、
または共同執筆など、2人の接点を探さねば、"オリジナル"を証明できない。
 
しかし、修道士として当時はスピアコ(ラツィオ州南部)で生活を送っていた彼は未だに
"ベネディクトの戒律"の製作には当たっていない、"Regula・・・"の作者はカンパーニア州の僧侶といわれている、土地的に近いところで生活をしていたのは事実だが、
現在のところ、この二つの書物のモデルとなった草書が存在するのではないかという仮説が有力である。
 
この"ベネディクトの戒律"に書かれているもので"Regula"にはないものとしていくつか挙げていきたい。
 
1、神によって与えられたからだを大切にすること、自分に対し過大、過少評価を行うことなかれ
その一例としてワインは適度にし、決して飲まれることのないように(酔っ払うなということ)。
 
2、修道院長の選出は民主制で行うこと
すべての修道僧たちにより選出されるべきであるに対し、
"Regula"では前任のものが指名することになっている。
 
3、チェノビティズモとは
"Regula"では隠者生活について綴っているのに対し、
ベネディクトは集団生活のルールを事細かに記している。
 
ベネディクト修道会については少し長いので今回はここで
一旦終了、次回はウィットビー教会会議と大グレゴリウスについて。