ナポリの小枝とノルウェーの切り株

ノルウェー、ヴィーガン、猫とおそ松さん

ブリテン島の二人

ヨーロッパ世界のキリストは地中海世界から北上する形で押し上げられ、
中世期の西洋を形成に多大なる影響を及ぼした。
 
今回はその初期、第一段階の最終回、ブリテン島のキリスト教について。
 
ブリテン島はずばり、現在のイギリス領土である島であり、
4世紀にはローマ人侵攻により、現在におけるドイツよりも先にキリスト教が広まった土地であること
を忘れてはならない。
 
ガリア同様、ローマ時代に司教区が置かれ、ヨーク、ロンドン、リンコルンの司教たちは
教会会議に参加していた記録が残されているほど、重要な地点であった。
 
ドナウ-ライン川に敷かれた自然の境界線を破って侵入してきたゲルマン民族は西へ進み、
海をも渡り、ブリテン島へと到達している、その内訳は現在のイングランド人と呼ばれている民族であり、
アングロ族、サクソン族、ユート族である。
島の端へ追いやられていき、その結果として、この時期のブリテン島は再び、パーガンの島と成るのである。
 
6世紀の終わりには教皇、大グレゴリウス(590-604)による、大掛かりな使節団が送られた。
サン・アンドレ修道院責任者であったアゴティーノと40人の僧侶たちである。
ユート族の王、エテルベルトとその従者一万人の洗礼に成功し、カンタベリーに落ち着く。
大グレゴリウスの偉業として、パーガンであったゲルマン民族を敵対視するのではなく、彼らの受け入れやすい形でキリスト教を広めることに勤めたことである。
 
ここで個人的な感想を入れさせていただきたい。
 
私のキリスト教に対する好奇心はとカトリックやルーテル派などの政府に認められた宗派以外にも向けられ、
いくつかの集まりやクルトにも参加してきた。
彼らは率直に言って選民思想が高く、他の宗派や宗教に対して排他的である。
人間は完璧でないにしろ、仮にも布教活動をするのであれば、大グレゴリウスのように
相手に受け入れやすい形で話を出来ないものかと思う。
いきなり死後の世界で小学生を脅す、合衆国生まれの宗派など悪く言ってしまえば洗脳だ。
 
逆に先代の教皇、ジョバンニ・パオロ2世は相手の文化理解を示し、布教した偉大な教皇である。
ユダヤ人教会であるシナゴーグを訪れた最初の教皇であることは興味ある方ならご存知であろう。
 
アゴティーノの活動とと中世初期のブリテンキリスト教に話を戻そう。
 
ユート族に続き、サクソン族、キリスト教を拒んでいたアングロ族もその王の死とともに
足早にキリスト教化されていった。
 
カンタベリー修道院及び、司教区を築いたアゴティーノ、ここに彼のライバルとなる
テオドーロ・ディ・タルソが現れる。
大司教としてカンタベリーに送られてきたこの僧侶はアテネで修行を積んだ、
ギリシャ文化をもち、ローマとのつながりが強いため、
ゲルマン民族ケルトカトリック文化に理解と寛容を抱いていたアゴティーノには
小言の多い上司であった。
 
以前の記事でも触れたとおり、キリスト教は地中海で生まれ、ギリシャ哲学とのつながりにより西洋社会へ流れ込んで来ている、更には聖書はギリシャ語で書かれているため、本場で特訓した人物に新参者であるゲルマン、ケルト文化を融合したキリスト教というのは正統派から外れるのである。
 
11世紀まではローマからもたらされたチェノビズム(未婚の集団生活)と禁欲、懺悔のケルトカトリック文化が融合する形で終わっているが、後にどちらが正統派であるか審議がもたらされることとなる。
 
カンタベリー及び、ブリテン島の宗教史を書き綴った修道士、ヴェダ・ヴェネラービレについて少し、触れておこうと思う。7世紀から8世紀にかけて文芸活動に貢献したこの僧はゲルマン民族の出身であり、この時期のマニフィックな布教活動と、修道院における"カテドラル、学校"の素晴らしい飛躍についてを書き残している。
 
その後もアイルランドカトリックの要素はブリテン島に強く足跡を残す、
そしてそこからさらにローマとは少し違った方向へ伸びていき、ゲルマン民族の貴族を味方につけ、
7世紀末には島からローマ色の濃い大陸へと進出していく。
ここでミッションに参加し、名前を残しているのが、ヨークの司教ヴィルフリッドである。
自ら教皇の下へと赴き、アイルランド式の教えに対し、認可を受けることに成功したのである。
 
この時代、ゲルマン民族はすでに定住し、ガリアやゲルマニアカロリング朝に権力が渡り、
新たなキリスト教との交友関係が結ばれようとしていた。
 
第一時期(500-700年)はここで幕を閉じる。
次回はヴィンフリッドと彼の布教活動について。