ナポリの小枝とノルウェーの切り株

ノルウェー、ヴィーガン、猫とおそ松さん

6世紀後半のイタリア  中世ラテン文学

ゴート戦争により、イタリアはビザンチン帝国、つまりローマ帝国に帰属するのだが、
ここで登場するのがロンゴバルド族である。
ロンゴバルド族とは北方ゲルマン民族の一つで
長い刀、又は髭を身につけてたことからそう呼ばれている。
この民族は元々スウェーデン起源でゴート戦争時には
ポーランドあたりを移動していた不定住民である。
傭兵としてビザンチン側につき、イタリアへ赴いたものは
後にイタリアを定住の地として、イミグレーションする。

6世紀後半には北イタリアを中心に大々的な侵略を行い、
パヴィアを首都に定める。
ローマからベネチアにかけてビザンチン帝国領が残るため、
南に移住し、公爵領を取る小ロンゴバルドとは2つに分かれた状態となる。

この民族はイタリアの歴史に大きな足跡を残す。
アリウス派からカトリックへの改教にラテン語で書かれたロタリ法発布など、
ローマの文化に近づこうという努力が見られる。
また、南部に敷かれた公爵領では侵略というより、移住という言葉があてはまるような、
原住民を脅かさない入植をしたそうだ。

イタリアの地名や人名にもいくつかの名残が見られるので紹介しよう。
地名編:まず、北部イタリア ロバルディア州=ロンゴバルドを意味する。
Gualdo=森、Sala=家、Gaggio=私有地、Fara=親族
人名編:Anselmo, Lambert, Aldo, Walter, Umberto
ロンゴバルド起源の単語:ベンチ、棚、漆喰、球、
体の部位:腰、腎臓、動詞:ふざける、飛び込む、2つに分かれる、絞る、いびきをかく
形容詞:豊富な、白い、疲れる・・・・等

この民族の王妃であったテオドリンダは自分の民族をカトリックに改教させたかった、
ここで登場するのが彼女と宗教を通して仲良くしていた
教皇大グレゴリウスである。

この教皇は政治家になるべく教育を受けていたのだが、
教会で僧に成ることをことのほか望み、修道院へ出家する。
幼少期の政治家になるための教育無駄にはならず、教皇ベラッジョ2世により
外交官としてビザンチン帝国の首都コスタンティノーポリで数年間を過ごす。
先ほどの教皇が亡くなると、グレゴリウスが称号を受け、カトリックの最高権力者、教皇となる。

彼の功績は先ほどのロンゴバルド族の改教に一役買ったことと
未だにケルト信仰の根強いブリテン諸島へ遣いを出したことである。
アウグストゥスによりカンタベリーに最初のキリスト教中心地が建てられると、
相次いで修道院、学校が開かれていった。

また、聖ベネディクトゥス修道院生活をカトリックにおける基準をするほか、
いくつかの文学作品も残している。
”Redistorum”書簡などの記録である、当時の政治体系や近隣諸国との関係を知る手がかりになっている。
”Dialogi”聖人の功績と論文により"聖人=昔の人"という概念を吹き飛ばせ、あなたにできることがテーマである。
”La Regula Pastoralis”修道院で生活を送るもの、また聖職者の仕事に従事しているものへの基礎知識とマニュアルを書いたもの。
また、旧約聖書にいくつかのコメントを残している。

同時期、フランスのトゥールのグレゴリウス司教により
フランク族の歴史を書いたものが残されている。
フランク族の残酷さは西ヨーロッパに名前を残すための必然であったと綴っている。
その視点の置き方は単なる第三者ではなく、子供のような先入観のない目で冷静に
まるで自然災害を見るように綴っている。
また、ポルタガルにあたるブラガの司教マルティーノについて記述を残している。
このマルティーノ司教は一年の日付数え法や一週間の名付け法などを書き記すほか、
ポルトガルを支配していたスワビア族の王、及び民族を説きカトリック洗礼を受けさせた
者である。

セヴィリアの司教によって西ゴート族カトリックに改教すると
イベリア半島全域にカトリックが浸透したといっても過言ではない。
しかし、この地に古くから住んでいたユダヤ人に対する迫害が行われる。

次回は7世紀のスペイン