ナポリの小枝とノルウェーの切り株

ノルウェー、ヴィーガン、猫とおそ松さん

リサイクルお城と砦

イタリアに侵入した北ロンゴバルド族(大ロンゴバルディアを形成)、
そして移民した南ロンゴバルド族(小ロンゴバルディアを形成)は
同じ民族ながらも別々の方法でイタリアに居座った。
 
さて、南に移民を言う形で流入してきた方は
その素晴らしく農作に適した土地に憧れるほか民族から
領地を守るために防護としての見張り台や塀を"すばやく"建てることが
彼らの領主としての一大事業であった。
 
彼らが首都として拠点をおいたのはベネヴェントとサレルノである(地図のオレンジのラインを引いたところ)。
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ベネヴェントはカローレ川沿いに出来たローマ時代から続く街である。
地理的にはアペニン山脈とイルピーノ山脈の間にできた盆地であり、
そこにたどり着くには川沿いを伝っていくルートが主流であるため、
そこさえ抑えておけば、敵の侵入を防ぐことが出来るのである。
 
海側に開けているサレルノに関しても事情はあまり変わらず、
高台から港を見張っておけば、敵の急襲から逃れることが出来るのである。
 
それではその足跡を考古学的証拠から見てみよう。
 
 
ベネヴェント、カテーナ塔
 
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ローマ人が築いた城壁と塔は、ロンゴバルド人が入植し次第、
物理的に組み直され、補強された。
見ての通り、大きいブロックは下部へ、そして一番崩れやすい角は
研磨し、形を整えた石で補強されている。
その合間を埋めるように小石と川底から採取された泥がセメントとして使われている。
 
この塔にはロンゴバルド人建築には欠かせない見張りようの小窓が無く、
写真で見えている黒い空洞の部分は足場を組んだあと、そのまま穴だけが残ったか形である。
穴の部分に木の棒を通し、その上に板を通して足場を組んだのだが、
図解がないとその姿を想像するのは難しい。
 
また、その塔の壁が1メートル近くもあり、塔内を歩くための歩道は比較的低い位置にある。
この事から、この塔の役割が遠くを見渡すために建てられたことではないことがわかる。
では、一体、何のために建てられたのか?
 
それはベネヴェントの地形と関係する。
この街に侵入するベストルートは谷底を伝って行く事である。
この塔から見張りをきかせていた先は街のすぐ横を流れる川であった。
このシステムはカローレ川だけでなく、アドリア海側へと流れるオファント川を遡って攻めてくる
東ローマ帝国側(ビザンツ帝国)を見張ることも可能であった。
 
また、使いに送ったものはこの塔を見て、ベネヴェントの位置を知り、
安心して拠点に戻ることが出来た。
 
 
 
 
サレルノ、アレキ城
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80年代にヒットを飛ばしたセクシーアイドル、
サブリナ・サレルノとは全く関係ない。
 
左に見える瓦礫のような城がアレキ城である。
見ての通り、この城は丘の上に建てられ、そこからは街、及び、海岸線を見渡すことが出来る立地にある。
城として機能するようになったのは13世紀後半、アンジュー家によるナポリ王国支配が始まった頃である。
それまでは見張り塔として"Torris Majour(大きな塔)"と呼ばれていた。
 
元々は6世紀半に見張り塔として、東ローマ軍により建てられたのだが、
その後、入植により居座ったロンゴバルド族によりその土台がそのまま利用され"大きな塔"が出来上がった。
こちらは高台から港を見渡すように出来ていたため、高さがあり、
その中には人が2,3人歩けるほどの歩道も付けられていた。
 
ここでは生活の跡は見られず、交代で見張りに当たっていたことが見て取れる。
敵が攻めてきたときには合図を出し、港に着くまでの時間で十分戦闘の準備が出来、
万が一この見張り塔に着く頃には急傾斜の丘に疲れきっている上、
塔から攻撃を仕掛ければ、敵がこの塔をのっとることは難しい。
 
ここで敵というのは船に乗ってやってくるサラセン人のことである。
1072年にはノルマンディーより、オートヴィル一家が着岸し、
ロンゴバルド族と血縁関係を結びながら政権は少しずつ、ノルマン人へと移っていった。
 
城の名前はアレキ城だが、サレルノ王子であったロンゴバルド人、
アレキはこの塔には住まず、彼の住居は港の近くにあり、
彼の館もローマ人により築かれた浴場跡を再利用したものである。
近年、その館も公開され、知る人ぞ知る名所となっている、実際、旅行ガイドにも載っていないため、
訪れるのは学者とサレルノ大学の学生のみである。
 
このように、ベネヴェントやサレルノは地理的に恵まれた土地であり、
ロンゴバルド人のセンスにより少しの出来合いの建築物からすばやく守りを固めることが出来た。
こうして、南の小ロンゴバルディアはしばしの平和を保つ。
 
 
アヴェリーノ、アヴェッラ城
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ベネヴェントとサレルノの間に位置するアヴェリーノという山間部のまちでもまた、彼らにより建てられた興味深い建築物が見られる。
 
こちらはアヴェッラという割と平地の地形に現れた高台に建てられたお城である。
先に述べたように、当時のお城は王侯貴族も住居ではない。
 
こちらも見張りとしての機能を持ち合わせていたのだが、この土地から見張っていたのはナポリであった。
 
 
 
真ん中の天守閣を囲んだ2重の城壁とその間に点在する塔は、
この丘から採掘された大理石を利用している。
こちらは再利用の建物でなく、一から作り出されたものであるのだが、
何時降りかかるかわからない危険に
遠くの採掘場から大理石を運ぶのは手間と時間が足りない。
 
さて、この砦からは東ローマ帝国領であるナポリを見張る。
 
ナポリ東ローマ帝国領のまま、ノルマン人の到着を待つのだが、
この土地は各外国勢力が持ち望む、農作に適した素晴らしい土地であった。
隙あらば、ロンゴバルド人も急襲を仕掛け、その土地を我が物にする計画だったのだが、
8世紀には教皇と手を結んだフランク族により、見張られることとなる。
 
 
 
 
南に入植したロンゴバルド人というのは、見張りを立てるポイントを熟知し、
ゲルマン民族、及びサラセン人、東ローマ帝国から陣地を守った民族である。
ここでは例に挙げなかったが、他にも数多くの塔や城砦跡が存在し、
どれもローマ人の使い古しをリニューアルし、改良した跡が見られる。
これは文献などの挿絵からその姿を想像したり、また残された土台などの物質的証拠から
歴史建築物を得意とするペドゥート教授により、その推定される姿の再現が試みられた。
こういった裏づけからロンゴバルド人の優れた管理能力が明らかにされ、
現代に伝えられている。