この話題はローマを中心とした教皇との関わりに重点を置いて
展開して行こうと思う。
西洋社会にこの宗教が入り込んでいったのには著名な宗教家や思想家における
数多くの功績もあり、古代多神教の世界であったイタリアおよび、地中海、北方ゲルマン世界に
どのように浸透して行き、そして、中世の終焉を迎える宗教改革にまで辿り着いたかが、
このテーマの核となるのだが、始まりから終わりまで、途方にくれるような人物たちや文献、出来事に
ひとつのテーマとして語るには時代に区切りをつけながら話していく必要がある。
ここで分けられるのは4つの時代である。
その前に話しておかなければならないのは、中世という時代の区切りについて。
イタリアではスタンダード中世として、ローマ帝国の崩壊を象徴する最後の帝王がガリア人を起源とするシーリ族でローマの傭兵オドアクレにより幽閉された476年から1492年のコロンブスによるアメリカ大陸到達までとされている。
その千年以上の時代には長い道のりを辿って現在のヨーロッパが築かれていった、
実際言語学的にも"Middle age""Medieval"と英語で書くのだが、
意味は"間の時代""中間"など、古代と近代を繋ぐ時代として表される。
さらにその千年を4つの時期に区切った今回のテーマはこのような副題をつけることが出来る。
1、2つの文化の融合期(500-700)
2、教皇と皇帝二人三脚期(700-1050)
3、世俗権力の反抗期(1050-1300)
ここで重要人物となるのは現在のフランスとドイツを
この時代はカール大帝の文化促進により、多くの文才産出やミッションが行われた。
ドイツの異教崇拝が行われていた地域にもイギリスの修道院よりミッションが送られ、
それによりキリスト教化は進んでいった。
また、南イタリアではノルマン人が猛威を振るっていた時期でもあり、現在のように所属の軍隊もっていなかった教会は世俗の権力者に頼る以外方法はなく、身の危険を感じると"人気の、売れ線の"強い民族と同盟を組まざるを得ないなど、少々肩身の狭い部分も見えはじめる。
世俗の権力者が教会の権力者を操り、世界を我が物にしようとしていたことが原因である。
十字軍の存在も忘れてはいけない。
ここでは正教会のオーガニゼーションについても説明する必要がある。
キリスト教世界における"唯一神"を結びつけた教義によりローマの貴族階級である知識人層から広まっていった。インテリ層は哲学や思想を勉学のひとつにしていたため、新しい思想を受け入れることに対し、抵抗が少なく、その後のミラノ勅令"宗教の自由"とテオドシオ帝による"カトリックを国教と定める"法によりローマ人の間で信仰されるようになったのだが、同じキリスト教でも教えの違うアリウス派を支持するゲルマン民族により、
ローマン・カトリックは一時、衰えを見せる。
続く