ここで少々疑問に感じるのはどのように教会が生き延びて行ったかである。
いくつかの司教区が生き延びていた、これらの教会では
ローマ帝国崩壊後もローマ法を教会内の法律として守り続けた。
また、7世紀に入るまで、ゲルマン系の司祭名の記録が少ないため、
ローマ出身の司祭によって治められていたと見られる。
このことから、教会を通してローマが生き残っていたともいえる。
ここで登場するのがフランク族のクローヴィス(466-511)である。
ここにはガリアの司教区に籍を置く、僧の存在も忘れてはない。
ウィーン出身のアヴィトとレーム出身のレミジオである。
前者はブルグンド族に、後者はフランク族に洗礼を促進した。
これにより、新たな司教区を誕生させることに成功している。
彼の戦略は成功し、短期間の間に見る見る領地は広がっていった。
ローマの古代文化を保護し、伝えていくことを義務に感じていた。
この場合はそれが"教会"であった。
上記のとおり、生き延びた司教区では古代ローマ法が使われ続け、
司祭、及び教会関係者はローマ人がほとんどであった。
このことからもクローヴィスのローマ文化保護は教会に向けられてきたといえよう。
当時のゲルマン民族分布図によれば、アリウス派に属する民族がフランク族を取り囲むように勢力を増していた、ゴート人はイタリアを陣取っていたし、ヴァンダル人は地中海沿岸を沿って西へ移動していき、ロンゴバルド族はパンノニア(バルカン半島北部)から西へ進み、北イタリアへ確実にその歩を進めていた。
クローヴィスのモットーとしていた信仰心はこれが根源ではないかと思われる。
パーガンから一気にカトリックに洗礼したことと、現在見られるカテキズムと呼ばれる洗礼候補者に行われる準備は全くなく、中には何も知らずに水を掛けられるだけの者もいたのではないだろうか。
実際、この時期のゲルマニアでは古代信教との混乱が見られる、
この信仰の混乱は7世紀、イギリス出身の司祭ヴィンフリッドが到着するまで続けられるのである。
彼の死後もその息子たちにより、領地の拡大は続けられる。
続く
補足: フランク族の洗礼には勿論宗教的な意味合いも含まれていた。
キリスト教徒になることで神に守ってもらおうという思惑があったことを忘れてはならない。