ナポリの小枝とノルウェーの切り株

ノルウェー、ヴィーガン、猫とおそ松さん

クリュニー修道会

西洋キリスト教における第三期は教皇VS皇帝の時代である。
 
このテーマで記事を書くに当たって、敬虔なる信者の方たちには正直なところ
申し訳ない気持ちで一杯だ。
なぜなら、ローマンカトリックにおける暗い過去を書き出しているも同然であり、
みなさんの清いキリストへの崇拝を否定してるようにさえ感じてしまう。
 
それまで精神世界を守るだけ存在だけであった教皇
バックに権力者が付くと欲が出始める。
ピピンから贈呈された教皇領の保護のため、神聖ローマ帝国という名ばかりの組織を形成し、
それを餌に世俗の権力者に守ってもらうという政策をしていた。
この組織の皇帝は実質的に教皇付きの護衛である。
 
この方法により、バチカンは守られた。
株のように勢力が変わっても、教皇より"破門"を言い渡し、新しい勢力、売れ株に投資することができた。
しかし、この方法もいつでもという言うわけにはいかない。
皇帝のタイトルを与えた人物がいつでも教皇に従順という分けではないからだ。
ここで大きな貢献をするのが同志であるクリュニー修道院だ。
 
この時代はオットー一世によるリベルタ・ロマーナ(聖職者に対する特権)は加速をまし、
聖職者貴族なる存在を生み出した。
信者から寄進させる小銭や自給自足で営んできた修道僧たちも
この法律により、通行税や関税をかける等してして更なる収益を生み出すことに成功し、
中には修道院とは思えぬ豪華な生活を送ったり、地方ではかなりの権限をもつ聖職者たちも出てきた。
 
 
その特権を利用して権力を付けたのはクリュニー修道会であった。
始まりは10世紀初め、ベネディクト派の修道院としてブルゴーニュ地方に建てられた修道院であり、
この修道院では修道院長の選出を院内で決めたり、厳しい上下関係を設けるほか、
不可侵権により世俗の権力者に左右されることがなく、
むしろ手厚い支持を受けることと成る。
 
未だにセミ・パーガンであった農民に教えを説いたり、貧しき者たちを救済院を設立し、
地元貴族より高評価を得、それにより土地や金銭の寄進を受ける。
それにより更に子修道院の設立が進められ、そのほとんどがフランスやイタリア、スペインなどに建てられる。
修道院の拡大は孫修道院の建設にまで至り、大陸全域の地方権力を味方につけたこの修道会は
教皇から多大な評価を受ける。
 
この修道会の功績により、教皇は新たな護衛をバックに付けることに成功したのだ。
 
金銭的に潤っていた修道会、豪華な生活を送る高位聖職者、
こういった生活に反論を唱えるものも出始める。
もう少し後のことだが、この修道会からはシトー派など別宗派が派生したり、またサン・フランチェスコによる托鉢修道会などが生まれるきっかけとなる。
 
ストゥリ会議
1046年にローマ近郊で開かれた教皇を巡っての会議である。
この時代の教皇はローマ貴族出身のものが多く、ローマ内部の貴族間にも権力争いというものが存在した。
その内の3家による教皇権の争いに終止符を打ったのがこの会議である。
 
グレゴリウス6世
 
以上が同時に教皇を名乗った3名である。
ベネディクトゥスの婚姻による帰俗から始まり、彼によって遠方へ追いやられていた元同僚のシルベストルはここぞとばかりに立候補するのだが、帰俗にあたって相談役を買っていたグレゴリウスがその後を継ぐことに成る。
問題は彼がその権威を受け取るに当たって、お返しとして相当な金額を送っていたことである。
その後、それを痛くつついてくるシルベストルには武力で対抗し(そのために皇帝であったハインリッヒ3世とその軍隊を召集した)、やはり教皇に戻りたいというベネディクトゥスには言葉で鎮圧を図るが、
結果はローマを去ることとなった。
 
グレゴリウス6世はケルンの修道院で隠遁生活を送ることとなる、
ここに付いてきたのは将来の教皇グレゴリウス7世である。
7世の教皇時代、ザクセン王ハインリッヒ4世の急襲を避けるべく南イタリアに足を伸ばす。
当時の南部を占めていたのは泣く子も黙るノルマン人であり、
教皇領を寄進するわけにはいかず、身の確保を目的にサレルノへ、そしてそこで余生を送ることと成る。
この教皇サレルノ大聖堂に祭られている歴史上唯一、バチカン外に眠る教皇であることでも有名だ。
 
この時代は西洋における2つの権力が対抗する時代である。
次回はスワビア公爵赤ひげ王について。