ナポリの小枝とノルウェーの切り株

ノルウェー、ヴィーガン、猫とおそ松さん

ヴィンフリッドの努力

西洋キリスト教の第二期700年から1050年までの約300年間について書き始めよう。
この時代は教科書で触れる中世の始まりであり、そこには欠かすことの出来ない要素として
キリスト教があることを念頭に入れていただきたい。
 
先に述べた次代に比べ、学校の教材で触れることも多いため、
書き出すに当たってあまり注釈を必要としないであろう。
 
今回はその第一回目、イギリス人使節団とフランク族のエピソードから始めていこうと思う。
 
フランク族の洗礼はメロヴィング朝のクローヴィスによって、
ほぼ、無理やりにキリスト教化した。
そのため、その教えに対して真の理解を得ていないゲルマン民族はこの時代も引き続いて
パーガン文化と融合した形で崇拝されてきた。
 
そこへやってきたのがイギリスより派遣された使節団である。
 
その中にはヴィンフリッドと呼ばれる人物がいた。
 
フランク族の政権はカロリング朝へと移り、その創始者であるカールマルテルもまた、
ローマン・カトリックの教えとは違う、パーガン・カトリックを崇拝していた一人だ。
この子孫であるピピンカール大帝教皇とのつながりは偉大なるヴィンフリッド(ラテン名でボニファクトゥス)
なしに語ることはできない。
ウェセックス出身のヴィンフリッドフランドル地方にてパーガン・カトリック撲滅に勤めたが、
政治的な理由でブリテン島に戻り、その数年後、ローマ教皇の下を訪れ
大陸のキリスト教化計画の手助けを請願する。
 
ヘッセン、チューリンゲンへと布教活動に回り、アモネブルグに修道院を建設した、信仰のよりどころとして、
ここよりローマン・カトリック化が進んでいく。
これらの修道院は2度目のローマ訪問時に教皇から正式に認可を受け、
その内容の手紙はカールマルテルに送られ、ここで始めて世俗の権力者にその存在が認められたのである。
新たに司教区が敷かれ、フランク王国とローマのつながりはさらに深まっていくのである。
 
その後、新たにミッションを開始し、再びヘッセン地方へ赴いた際には教皇、及びカールマルテルの文書を携え布教活動を行うことに成功している。この地方ではゲルマン・パーガンが根強く残っていたのだが、
彼の熱心な信仰と語りによって、このパーガンたちに深い理解を要求することが出来た。
 
ここで起こったのか新参者VS地元民である。
いくら修道院の建設に成功しようとも、地元民である地方貴族により、新たな司教区を設けることが難しく
再び、教皇の下を訪れ、教皇よりバイエルンヘッセン、アレマン、チューリンゲンに司教区が置かれた。
 
困ったときは教皇である。
 
来るべき8世紀前半終盤にはフランク王国における教会大改革が行われた。
これはカールマルテルの後継者であったピピンとカルロマンノにより
フランク王国内における司教区の境界線をさだめるといったものであり、条約によって教会はローマにより治められるという不可侵条約が結ばれた。
 
ヴィンフリッドによりフランク族はローマとの関わりが深い民族となっていった。
その後、カール大帝により教会領が返還されたり、ロンゴバルド族イタリア侵攻、及び領地の奪回は
彼の信仰心から行われたことは言うまでもない。
教皇のために戦った信心深い世俗の権力者であったのは父ピピンから授かった処世術の一つでもあった。
 
この時代の教皇には見えないものを治める、精神世界の権力者として
カトリック世界をパガネズムに広めることに成功している、それには信心深い部下である司教、及び一修道士の信仰に対する熱心な布教活動が裏にあることを忘れてはならない。