ナポリの小枝とノルウェーの切り株

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オットー1世"再編成"

カール大帝の時代が終わると、少々頼りなくなるカロリング朝
教皇もその動きを読んで、より強い従者を付けるべく、新しい皇帝選出にかかる。
イタリアの歴史教科書ではカール大帝が第一代目として大きく書かれているのだが、
地域によってはそれが認められていないようなことも聞いた。
 
教皇レオ3世はカールに褒美としてあげたタイトルがそのような形で取られてしまった、
このタイトルは教皇による権力の認知であり、帝国領は教皇に属するような内容だ。
 
この時代の神聖ローマ帝国の皇帝は世襲制ではなく、教皇によりふさわしい者が選出された。
(のちに選挙制になり、近代国家としてのドイツ形成に大きな影響を与え、統一が遅れた。)
ここで補足させていただきたいのは教皇の選出についてである。
 
キリストの使徒であったピエトロの後継者として、その地位は確立しているのだが、
選出に当たっては聖職者や敬虔なる信徒によりローマ方式が取り入れられていた。
投票という確実な方式でなく、オーディエンスの盛り上がりで決めるという曖昧な方法が取られていたため、
後に問題となり続く第三期教会公会議時代に突入するのだ。
 
さて、オットー1世とは誰か?
 
10世紀に活躍したザクセン公である。
その土地東側にあったことから、ハンガリー民族他、東の勢力と戦うざるを得なかったのだが、
戦争で勝利を収め力をつけていき、ボルドー、ロレーナ、北イタリアをも占領し、
教皇に護衛をオファーした。
 
カール大帝に続いてローマにおける偉大なる皇帝となる人物であるのだが、
こで問題なのは神聖ローマ帝国という曖昧な地位である。
 
実際名前だけのタイトルは変わらず、信心深い彼にとってはカール同様、精神的に大きな価値があったほか、
それ以上のことは確立していない。
 
彼は政治的にとても優れていた。
採用した政策は自己の地位確立と保持のため、そして力勝負が続くこの時代にに大きな変化をもたらした。
 
1、防衛、国境の強化
東側には異民族の土地が押し寄せているため、見張りを強化し、侵入を防いだ。
 
2、血族による平和維持
江戸時代の参勤交代に代表されるように、親族を他公爵領に追いやって見張らせた。
この時代のドイツはゲルマン異民族により公爵領となっていたのだが、
オットーのもとまとまっていた、反乱、謀反は皇帝に非がなくとも計画されるのが普通なので、
見張りを兼ねて、地方政権は親族に任せていた。
 
バイエルン 実弟ハインリッヒ
ロートリンゲン 婿コラート
スワヴィア 長男ルドルフ
ザクセン オットーの補佐役であったヘルマン・ビッリング
当の王オットーはフランク地方を担当した。
 
彼らのうち数人は謀反を試みたが、ハンガリー人の侵略によりすべては白紙の戻させられたのである。
 
3、教会を味方につける
高位聖職者は未婚が義務付けられているため、家系のタイトルは受け継がれることはなく、
またその子孫により玉座が危うくなる恐れは極めて少ないのだ。
また、領地内の教会及び修道院は皇帝により建てたり、壊したり出来る権利があり(神聖ローマ帝国とはローマの意思を引継ぐものとして、ローマン・ルールが採用され続けた教会内ではこの皇帝の権限は有効であった)
これを利用して司教区を拡大することに成功した。
また、聖職者貴族の出現もこの時期である。
オットーは教会の権限をなるべく配慮し、自由を与えた。
こうして司教区内に通行税、関税を設けたり、法律の上でかなりの特権を得ていった。
 
これらの政策は時代にあっていたといえる。
2に関してはハンガリー人による侵攻があったため、謀反どころかオットーに力添えをお願いし、
その強さを目の当たりにした計画者たちは何もいえない状態になってしまった。
3はその後の教会文化に大きな変化をもたらした。
聖職者たちもお金を稼ぐことに多大なる興味を得て、自分たちの聖堂を豪華で素晴らしいものにして行った。
それは教会の宝物堂などを見れば一目瞭然である。
美術に関してもかなりの関心が見られる、この時代に建てられた教会建築はロマネスク様式と呼ばれ、
古代ローマへの憧れを強く表現したクラシックでシンプルなスタイルを持つ。
 
936年、カール大帝の習慣に従ってオットーは大帝の礼拝堂であったアーヘンの大聖堂で
ザクセン王のタイトルを受ける。
962年、サン・ピエトロ大聖堂(現在の寺院は近代、免罪符の収益により建立)にてローマ教皇ヨハネ12世により神聖ローマ帝国のタイトルを受ける。
 
こうして第二期はカールに始まり、オットーに終わる。
ゲルマン民族が主役となり、教会が権力を誇示し始めた時代であった。
また、オットーの時代で忘れてはならないのは"1000年"である、この年号はキリストが再び君臨し
ヨハネの黙示録が繰り広げられると考えられていたため、民衆の間で混乱が生じる。
これを利用して教会は益々権力を我が物にしていったのも想像できるであろう。