ナポリの小枝とノルウェーの切り株

ノルウェー、ヴィーガン、猫とおそ松さん

リーセ・クロステル修道院跡 西ノルウェー

ベルゲンより南数十キロ、隣県オス(OS)との間に残る
修道院跡は1146年建立。
当時は"リーセ聖母マリア修道院"の名で呼ばれていた。
 
フランスより派生したチトー派の修道院である。
ご存知の通り、ノルウェーキリスト教はイギリス伝来である、
この修道院も例外ではなく、ヨークシャーのチトー派、フォンテイン修道院から
遣わされた修道士達によって築かれた。
また、この土地は当時のベルゲン司教であったシグルドにより寄贈されたそうだ。
 
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こちらが中庭の写真です。
真ん中にある井戸(雨水用、雨の多い土地柄、さぞかし溜まったことであろう)や
中庭を取り囲む装飾された柱の回廊が雰囲気満点だ。
 
中世に築かれた修道院や街のシンボルになるような教会は
"理想的な教会建築法"なる書物にも書き残されている程、
中庭をはさんで教会へと入るようになっている。
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イメージ 2キオストロと見取り図。
2重の装飾柱が東方の雰囲気をかもし出している。
 
見取り図によれば、教会は一廊式で
柱らしき土台の無いことから、壁だけで屋根の重さを支えていたこととなる。木材を使用した三脚天井に屋根も重みの少ない素材を利用したのであろう。ノルウェーは木造建築の文化圏なので、当時ヨーロッパ大陸で流行っていた石造りの天井の建築様式はそこに置いていて、とりあえず、風雨を避けようということだ。
 
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ちなみにこちらがチトー派修道院による、建築様式の理想的な見取り図。
リーセ・クロステルの修道院もこれをお手本に作られたことがよくわかる。
 
廊下は柱で区切られていないものの、教会の翼廊につけられた左右の礼拝堂、中庭、会談室、台所・・・どれをとってもそっくり。
 
中世といえば混沌の時代と想像してしまいがちだが、この修道院が作られたのは12世紀、キリスト教化の進んだヨーロッパでは十字軍遠征に行こうというところ、非政府状態で無くなったヨーロッパは国家の3本柱になる法律、政治、宗教を固めて近代国家に近づいていこう、という時代である。
もちろんオカルトファンにはマストな魔女狩りや少年騎士団など、
恐ろしいことも歴史上の文献に記されてはいるが、
主な権力者たちはローマン・カトリックのもと、一つとなり、まとまっていった時代である。
 
ノルウェーは大陸から見て僻地にあったため、伝来は遅く、
8世紀末頃には、イギリスの東側やアイルランド修道院を襲撃し、
金品を奪い去っていた。そんなところにも宣教師が教えを広めに来たり、
王様たちによる理解が、この国に新しい教えをもたらした。
 
遺跡の状態はよく保たれ、補修、修復されていた。
周りとの海抜の高さから、土に埋まってた部分が残っていたのではないだろうか。
壁の作りも薄めの石板を重ねたもの、ブロックを丁寧に積み上げていったものと
混合しているが、修復によって付け足された部分が多いことも見て取れる。
 
ベルゲン市の海岸線を南に辿っていったほぼ終点際に、ブエナカイと呼ばれる地区があり、
フィヨルドから東側の丘に向かって数キロの地点に位置し、
修道院としてはあまり守りに入った地域ではない。
イタリアの修道院などは、山の頂や見晴らしの良い丘に建てられていることが多い。
イスラム勢力の急襲から守るためだ。
 
ノルウェーの場合はフィヨルドの複雑な海岸線が、土地を保護してくれること、
イスラム勢力の襲撃がほぼ、皆無であり、
この修道院が建つころにはすでに政治が安定していたこと、
敵がデンマークスウェーデンといったキリスト教国家だったため、
宗教施設が教われる確率はきわめて低い。
 
もっと知りたい方へ
英語です。
 
ベストシーズンは5月から10月まで、温暖な西ノルウェーとはいえ、
郊外にあるこの遺跡は雪で埋まっていたため、回廊のアーチ部分しか見えなかった。
写真はすこぶる広く見えがちだが、実際はもっと小さな感じがした。
 
この遺跡へはベルゲンからリーセ・フィヨルド行きのバスに乗り、
オーレ・ブルの水色別荘リーソエン(Lysøen)のあるブエナカイ地区で下車、
停留所は運転手に聞くべし、運転手によっては英語は話さなかったり、
大ボケかまして終点まで連れて行かれたり、地元に詳しくない人もいるので要注意。
所要時間は50分。
 
アドバイスとしては夏でも上着を持っていくこと、
バスは巡回するので都市部ほど時間通りに通らない、
気長に待つこと。