ナポリの小枝とノルウェーの切り株

ノルウェー、ヴィーガン、猫とおそ松さん

旧ソ連邦の人々(追記付き)

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※ ヤフーブログにて2009年ごろに公開した記事です。

現在は随分と状況が変わっていますが、その当時の様子をお伝えすべく記事を残して多少書き込みを加えることにしました。

この記事でいうところの旧ソ連の国は現在のジョージア共和国のことを指しています。

私はこの国の方と長いことアパートをシェアしていました。


海に面した私のアパートには、旧ソ連から出稼ぎにいらした方々が住んでいる。
いい所に住んでいると思われるかもしれない、
海が見えるのは気分がすっきりするが、
70年代に建てられたであろうおんぼろアパートである。

このアパートには90年代後半に独立した、旧ソ連の国籍の方が住み、
その生活習慣や思想の違いには、かなり困惑させられる。

東欧諸国に興味のかけらも無い私だが、この記事を書いた当時はあまり紹介されていない上、日本でも在住者はそんなにいないんじゃあないかな?
と、思われる彼らとの生活をレポートしてみようと思う。

彼らの手料理はトルコとギリシャを連想させるクミンパウダー系のスパイス
乳製品に油と砂糖がたっぷり、そこにウクライナの要素が混じった
根菜と脂身をふんだんに使った、心臓と肝臓が完全にやられる料理を食す。
おいしいから困るけど・・・。

最初に嫌気が差したのは、今、流行の言葉で表すなら、
彼らはひどい虚言癖を持つ。
悪口を言っているのでない、事実である。

これは元共産圏の名残であり、少しでも政府の悪口を言ったのなら
即監禁されるからだ、国外逃亡計画も内密に行わなければ
密告により、逮捕されるなど、イタリアで大成功を収めた
アルバニア出身のダンサーは言う。

また、東ドイツの愛の物語、"林檎の木"を見ていただけたらよくわかるだろう。
映画の中では共産主義を称えてパーティーが開かれる、
そんなの、実はうわべだけで、辛い現実をしまい込むために大騒ぎしている。
ただそれだけのこと、そう言った勇気のある青年フランツは牢屋にぶち込まれ、
89年のベルリンの壁崩壊まで肩身の狭い生活を虐げられる。

私のアパートの同居人たちも全くそうであった。
とにかく騒ぐ、大声を上げ、家中を走り回り、ディスコ並みの大音量で音楽を楽しむ。
同情を買うため、血の繋がっていない友人を姉妹や従兄弟と偽って紹介する。

中には金のアクセサリーばかり身に着ける、見るからに「成金」な人もいた。
毛皮や貴金属を身につけ、厚化粧をして街へ繰り出し、
お金のありそうな年寄りに言い寄り、
愛人になって経済的に、法律的に自由になろうとする、
そういう婦人の元配偶者は大概、ロシアで交通事故にあって亡くなっている。

彼らの功績は"尻軽外国人"の名で呼ばれるが、
同じくイタリア国籍でないというカテゴリーは
発掘ラボ帰りで土木作業員風の私にも当てはめられるため、実に覚えの無い罪で罵られる。

彼らがこのアパートに越してきた当初、
先住者の私は透明な存在でよほど見えなかったのか
コミュニケーションというものは存在しなかった。
挨拶すらしないのである。

大家がいるときだけ、私と話すなど、誰が権力を持っているのかはわかるようだ。

おとなしい私を尻目にお友達が来ては風呂に入っていく、
ひどいときはアパートがラブホテルとして利用されていた。
彼らのお仕事は老人介護として、自立の難しいお年寄りの家に寝泊りをして
月給500ユーロを稼ぐ。この方法だと家賃や食費は払わなくてもよいが
家族を持つアバンチュール煩悩老人と性的つながりを持つ場所が無い。
だから、一人でもアパートを借りている同郷人を利用するのである。
こういう斡旋をしていた住人は、大家の抜き打ち訪問により即、追い出され
それを訓に今のところ、同じことは起きていない。

こんな状況で一年が経った。
私を人間として認めてくれたのか、彼らが自分達の置かれている状況をもらすようになった。
仕事先のトラブル、現地での恋愛、同郷人同士の人間関係などは
同郷人同士で話すことはタブーなのだそうだ。
酔っ払って大騒ぎして、嫌なことを忘れる・・・元共産圏で生きてきた人とは
自分の苦しみを表現したり、分かち合ったりしては罪になってしまうのであろう。

カミッラも私も正直をモットーとして生きている。
辛いときは手を取り合おうではないか!
なんて、彼らには死刑台へのエレベーターに等しいのだ、
自由思想を持てる社会に生まれたことを幸福に思う。

 

※というわけで、このアパートに引っ越ししてきた当初、グルジア出身の女性が一人住んでいたのだが、従妹と呼ばれる女性が毎日家の中をウロウロして住まわせていた様子。この女性は私の部屋に入り込んできてはごみ捨てやちょっとした台所の掃除をやるように命令してくるどころか、私を見るたびに家の仕事をやらせるので部屋から出るのが嫌になってしまっていました。

彼女はイタリア語がほとんど話せないので、まともに会話をする代わりに声を荒げるので、まだ若くて共産圏の状況など知らずに生きていた私は、同居するにあたり恐怖でしかなかったです。

“私もあなたも平等なんだから掃除をしろ”

多分、彼女はこう言いたかったのだと思いますが、他にもいたイタリア人やオーストリア人のシェアメイトが掃除をしようとすると必死にとめていたので、イタリアで差別をうけている彼女の中にも人種差別があってアジア系である私に自分がしていた家事の負担を押しつけようとしていたのかもしれません…しかし、グルジア多民族国家なので、彼女とコミュニケーションが取れないので、何を思っていたかは知りません。

ある日、私にだけ掃除をさせようとしたので、つい、反論してしまいました。

というのも、この人は家の掃除をする代わりに家賃が私の払っている半額だということを大家を通して知っていたので、そのことを冷静に話すと更に声を荒げて怒鳴られながら腕を掴まれ、流し台にたたきつけられました。

それでも冷静に腕を離してほしいと言ってみるが、相手は聞こえていない様だったので、大声を出して話すようと伝えると、今度は首を絞められそのまま失神したようです。

その日のうちに引っ越しを考え、大家に連絡を入れると翌日の夕方に来て仲裁に入りました。

彼女は大家の前でへらへらしながら私に謝りましたが、私は相手に許さないこととと反省していないのに謝罪はいらないから、今までやらせていた家事は二度とやらないと話すと、大家に私を使って掃除させていたことがバレて彼女に対する監視が強くなり、私は自分の家事以外はしないことにしました。

その二か月後には、元旦に抜き打ち訪問をしたところ、いつもいる従妹と呼ばれる女性が逃げるように家を出て行ったため、友人を泊めてはいけないと約束を破ったと激怒した大家から3日後には家を追い出されてしまいました。

大家も極端な性格で、従妹がいる件に関しては騒がなければ私には何の問題もなかったのですが、自分に対して忠実でない借りてには厳しく警察に通報されてもいいくらい罵っていました。

その数か月後には別のグルジア人女性がアパートを借り、その方とは問題なく過ごせていました。更にその後もその人のつてで数人のグルジア人が入っては出てを繰り返しましたが、彼らの文化をやっと享受してもらえるくらい仲良くなることが出来て、何度か食事に誘われたり、故郷から小包が届くとお裾分けしてくれたりと楽しいシェアメイトとして数年過ごすことが出来るようになりました。