西洋キリスト教史も第4期(1300-1500年)に突入。
前期では教皇と皇帝の力比べ、教会権力の拡大からフランスにおける政権の成長に
アヴィニョン捕囚という事態を招くイントロで幕を閉じた。
敵であったスワビア権力はフランス貴族のアンジュー家により断絶したのだが、
今度はフランスが鼻につく。
教皇ボニファクトゥス8世はフランスの勢力に危惧し、
教会に従うようフィリップ4世に大勅書を送りつけるが、逆にフランス王により幽閉されてしまう。
それ以降、フランス王が教会を操り始め、それまで固められてきた
教会の権威は国王の傘下に収まり始める。
教皇クレメンテ5世(1305-1314)
フランス南部のアビニョンに移住した。
オットー1世の時代に築かれた教会の自由、叙任権の不可侵入が守られつつも
自分の権力が及ぶものを教会に送ることにより
権力を操り、二極性だったヨーロッパを2つの権力の形態をとどめながら
実質的には一つにまとめることの成功したのだ。
さらには政治のうえで邪魔な存在であったテンプル騎士団の解散も
異端の言いがかりをつけて処刑した。
彼らはいくつかの土地と財産があり、それらすべては国王に没収された。
ピエトロの遺骸が祭ってあることや、古代からの首都として、
キリスト教が公認されてからその中心地として続けられてきたことにある。
教皇庁がフランス領土に移動したことにより、世俗、宗教といった2つの権力がフランスに集中することとなった。
これをアビニョン捕囚という。
対ドイツ領
それではローマ皇帝はどうなったのか?
世俗の最高権威であった神聖ローマ帝国の皇帝は既に形だけのものであった、
しかし、教皇とのつながりが深いこの地位も流石に物言いがはいる。
ドイツ領内から選出、教皇から戴冠を受けることが伝統として残ってきたのだが、
フランス王とつながりが深くなってしまった教皇、
教皇ヨハン12世は当時の皇帝ルートヴィッヒを廃位に追い込むと、
何かにつけてドイツを敵対視した、こういった状況にルートヴィッヒは議会を召集してことの解明を図る。
これが教会公会議主義の始まりと成る。
会議により決議された内容は教皇の権威を上回るというものだ。
土地の買収を申し出る。
その権力に対抗するため、皇帝により対立教皇が立てられたが、どれも失敗に終わっている。
捕囚の最後の教皇グレゴリウス11世がローマに戻り、この事件は幕を閉じるが
そこから来るべき1375年、西方教会内大分裂を招くのである。
つまり、野望に満ちたフランス王がローマ教皇に対抗するため、