ナポリの小枝とノルウェーの切り株

ノルウェー、ヴィーガン、猫とおそ松さん

2人の教皇 西方教会大分裂

西方教会第4期は権力を増したフランスの言いなりになる教皇と教会民主制の時代。
 
フランス国王及び、国家形成、
ドイツの領主制の存続とドイツ王すなわちローマ皇帝という形式の確立(教皇から戴冠させることなく皇帝にさせるための図式の確立)、
教会の最高決定権は教皇から教会公議会へと移される。
 
 
ここで少し、前記の記事に補足を。
 
よく質問されるのがアビニョン捕囚の間、
ローマの教会領の教皇は不在だったのかということだ。
 
正式な教皇(ボニファクトゥス8世のあとに立てられたクレメンス5世)はフランス国王フィリップ4世により、
フランス、アビニョンへ連れ去られてしまう。
 
その教皇に対立すべくローマに立てられたもう一人の"対立教皇"、
ローマにいたのが対立教皇という変な時期であった、
この辺はとてもややこしいので、比較的シンプルな中学生の教科書で勉強した。
 
正式な教皇は前任の教皇のあとを継いでいるものということだ。
ただのセオリーだが、歴史的出来事を整理するうえでは
この言葉遊びにも要注意だ。
 
 
最後のアビニョン教皇グレゴリウス11世が亡くなると、
ローマとアビニョン両方に2人の教皇が立てられる。
この事件を西方教会大分裂という。
 
さて、グレゴリウス11世は晩年、ローマに戻る決意をしたのだが、
それは身の安全確保と新しく出現した修道会により説得されたからである。
これは前任のウルバヌス5世か続いていた。
 
フランスでは100年戦争が始まっていた。
カテリーナ、ブリジダという2人の聖女によりローマに戻るよう説得された。
この時代に人気を集めていた奇跡を見た二人である。
カテリーナは聖痕(キリストが十字架に架けられたときにつけられた傷)があり、
ブリジダは聖母マリアの出現を見ている。
 
 
グレゴリウスの死後、すぐに立てられたウルバヌス6世は南伊バーリ出身である。
イタリア人を教皇に座に就かせるため、ローマの教皇選出所では市民による暴動が起こった。
当時の枢機卿過半数をフランス人が占めていた(16人中11人)ため、
フランス人教皇が選出されるのは想像にたやすい、
教皇を再びフランスに返すまいとローマ人たちは暴動を起こして、
イタリア人教皇を選出させたのである。
 
さて、ここで注釈を加える。
 
ウルバヌス6世は修道院長であったが、枢機卿ではなかった。
暴動を鎮めるために無理やり選出されたのだ。
この選挙に不服の枢機卿たちは身の安全を確保すると、
"正式"な対立教皇選出を行う。
これにより選ばれのがクレメンス世、アビニョン教皇となる。
 
ピサ教会公会議にてこの事件の決議が行われたが、
結果は2人の教皇を無効とし、新たにもう一人の教皇を立てることで決着するが、
これは同時に3人の教皇が存在し、お互いに破門しあうという事態を招いただけだった。
 
後に行われるコスタンツ会議(1414)でこの現象を片付ける方針をとった。
 
最終的には3人の教皇の廃位が決定し、マルティヌス5世が新たな教皇としてローマに着任した。
 
またこの会議では異端の排斥とその一派の決定(ヤン・フス、ウィクリフ
そして教会会議における改革、教皇の制御と10年おきの議会に召集など
近代に先駆けた新たな秩序とルールが決議される。
 
このあたりで私の専門分野である中世は幕を閉じる。
近代は国家の誕生と新たな宗教観、異端審問や魔女狩りが盛んになり、
新しい思想の浮上と滅亡、ルネサンスは人間復興を意味するが、実際のところ、
中世よりも思想の不自由が行われてきたと、解釈する。
 
ダンテとボッカッチョに作品の違いから、多くの人々が中世を暗黒と勘違いしている。
中世は文献こそ少ないが、文化活動は宗教や国籍を問わず盛んだったことは
過去の記事を読んでいただければわかるであろう、
キリスト教世界において、文学、医学、神学、史学に長け、後世にその名を残した女性も多い。
 
中世は時代の遅れや暗闇を例えて表現されることが多い、
しかし、一歩踏み込んで文化に触れることで、新しい発見と革新的な時代であったかが顕著であるのも事実だ。
 
オカルトファンの皆さんが気に欠けている魔女狩り
イタリアはおろか、中世にには行われていない、これは近代に入ってから
その土地の領主の地位保全のため、教会をを利用した部下への脅しともいえよう。