ナポリの小枝とノルウェーの切り株

ノルウェー、ヴィーガン、猫とおそ松さん

インノセンティウス3世とボニファクトゥス8世

教皇と皇帝の地位争いが始まる12世紀から13世紀にかけて教皇領を守り、
またその地位と権力を皇帝に見せ付けた教皇であるこの二人、
独自の軍隊を持たなかった教皇領では外からの圧力に対し、
皇帝に頼らざるを得なかったわけだが、カール大帝、オットー1世のように
いつでも皇帝が味方してくれると限ったわけではない。
 
そのため、反逆を企てるもの、教会のルールを無視するものなども現れる。
カノッサの屈辱で知られているハインリッヒ4世がその一例である。
 
しかし、当時のドイツはフランスのように政治が一つにまとめられていたわけではない。
 
ザクセンバイエルン、フランク、スワビア、に分権され、
ドイツ王の選出は会議によって行われていたため、どこかの領主に不具合が生じれば
近隣の領主が攻めこんでくる可能性が高く、また東側と国境を接していたために
マジャール人イスラム勢力などが攻め込んでくることも多かっため、
団結するに越したことはない。
教皇側もそういった事情を利用したり、または寝返って、反対勢力に加勢を要求しながら乗り切ってきたのだが、
絶対的な教会の権威を知らせめさせた教皇はインノセンティウス3世であろう。
 
彼が手を下し、教会権威を定着させたことを箇条書きにしてみよう。
 
1、領土の保安
南イタリアシチリア王国)をローマ帝国に帰属させないことにより保安を保つが、
皇帝選出には強い権力で自分に有利なものを任命する。
 
2、帝国外の政治に介入
イングランドカンタベリー大聖堂司教の任命にあたり、イングランド王を処罰、破門。
フランス王フィリップ2世の離婚問題に処罰を与える。
 
3、托鉢修道会の存在認可
フランチェスコ修道会の存在に認可を下すことにより、民衆から受け入れられやすくなる。
 
 
この教皇は時代の流れを把握し、その流れに対応して教会権力を強くした。
 
12世紀から13世紀にかけて、ドイツではドイツ王の座を巡って争いごとが起こり、
神聖ローマ帝国そのものが危機にさらされていた。
 
赤ひげ王は十字軍遠征で命を落とし、そのを跡を継いだのが息子であるハインリッヒ6世であった。
ノルマン人により支配されていた南イタリアローマ帝国のものにしようとハインリッヒを
ノルマン人、アルタビッラ家の末裔であるコスタンスに婿入りさせた。
そうして生まれた子供がフリードリッヒ2世である。
 
ノルマン人勢力が強く、比較的裕福であった南イタリアローマ帝国領内に入れてしまうのは
不安材料であった。
権力が寝返る可能性が高かったため、既に皇帝となっていたスワビア王であるフィリップ(赤髭王の嫡子)
に変わってザクセン王のオットー4世に政権を渡した。
フィリップは暗殺されたが、その事実は明らかでないのでここでは追求を避けたい。
 
スワビア家でありノルマン人の血を引くフリードリッヒ2世は生後まもなく両親を亡くしたため、
教皇インノセンティウス3世の下で育てられる。
当時にしては高齢出産であったコスタンスは産後の肥立ちが悪く命を落としてしまった。
更にはハインリッヒも後を追うように亡くなった。
 
教皇の期待を裏切って南イタリアに興味を持ったオットー4世は
皇帝のタイトルを剥奪され、変わりに位に就いたのが成人したフリードリッヒ2世であった。
 
また、西ヨーロッパにおいて教会権威の誇示を行うことに成功し
その力を絶対的なものにした。
その例としてフランス王フィリップ2世の離婚問題やイングランドにおいても叙任問題に介入するなど、
ローマ帝国領外の問題を片付けることでその力を知らしめることに成功したのである。
 
十字軍遠征、異端審議などカトリックが絶対であることを西洋キリスト教世界に定着させ、
謀反や教皇領の危機を防いだのだが、
スワビア朝の勢いを衰えを知らず、フリードリッヒ2世の友愛精神や頭の政治に
人気が高まり、更には芸術や勉学のため、イスラムの民までもを領地に移住させてしまうほどであった。
 
イスラムとの平和を保つため、十字軍遠征にも行かず、独自の政治を続ける皇帝に
3度にわたる破門を言い渡し、皇帝を危機に追い込む。
 
ここで教皇が変わって続くインノエンティウス4世はフランスのアンジュー家
領土の譲渡を条件にスワビア家を断絶させ、この件を収めた。
 
 
さらに後任の教皇ボニファクトゥス8世はこのフランス勢力をまとめることが出来ず、
中世の教会最高権力を失うこととなる。
ボニファクトゥス8世は政治的にも宗教的にもあまり適任な教皇とは言えず、
その勢力の対策として教会最高権力法を突きつけるが、それを拒否した
フランス王、フィリップ美男王は破門される。
 
しかし、独自の軍隊を持たない教会は力による制圧に弱く、
教皇はローマ近郊のアナーニに幽閉されてしまう。
助け出されたところでその数週間後には亡くなっている。
 
フランスは中央集権制を取っていたため、そのまとまりは早く、
近代国家に向けていち早く歩を踏み出した国である。
 
勢力をつけたフランスは教皇に言いなりになることを拒否し、
自分たちに都合の良い教皇を迎えようと
アビニョンに新たな教皇領をつくり、対立教皇を立てた。
これがアビニョン捕囚の始まりである。