ナポリの小枝とノルウェーの切り株

ノルウェー、ヴィーガン、猫とおそ松さん

クリュニー修道会 ベネディクト派発展

自分の陣地ではないので、うまくまとめられるか少々不安ではあるが・・・。
 
10世紀にフランスを中心に発展したベネディクト会からの派生修道会である。
 
本題に入る前に:
8世紀後半、カール大帝により修道院は学校としての機能が大きい部分を占めるようになると、
ベネディクトの戒律を改定する動きが起こる。
戒律の改正はベネディクトの戒律を帳消しするかのように教会腐敗を生み出す。
教会に富を蓄えるもの、聖職者であるにも関わらず、婚姻または愛人を持つ者、聖職売買する者まで現れた。
 
その動きに反対するものが現れた、それがアニアーネのベネディクトである。
彼は先代のピピンの宮廷に出入りし、その孫に当たるルードビッヒ・ピオ(カール大帝の息子で後の後継者)を
バックに戒律を厳守した修道院を自費で建設する。
アーヘン会議(816)にてベネディクトの戒律を取り戻すことが決議され、もとに戻りつつあった。
 
彼の功績により新たな修道院が次々に建てられる中、
カール大帝の逝去と伴に新たな政治不安定に落ちるヨーロッパでは
政治家たちによる教会への介入が悪化した。
 
貴族たちは比較的安定している修道院を利用した金品集めに走る、
教会関係は税金の免除に司法権(裁判官)という特権が与えられていたが、
それ以上に儲けを得るため、戒律の改正が再び叫ばれるようになる
というのも貴族たちによる教会を利用した資金繰りが裏には存在していたためである。
実際、教会に集まった富はその土地の世俗の権力者により没収、又は帰属というかたちで
持ち去られることが多かった。
 
時代はノルマン人、サラセン人、ハンガリー人による進入に
壊滅的な被害を受ける修道院、地中海にぽっかり浮かぶ南イタリア
その温暖な気候と豊富な食料庫という土地柄、あらゆる民族の標的となっていた。
 
10世紀、カール大帝の後継者たちはフランク帝国を3分割し、
兄弟同士で領地の取り合いが起こり、神聖ローマ帝国皇帝の称号は
当時、勢いのあったザクセン公爵へと委ねられる。
 
オットー1世である。
 
長い前置きを終え、本題に入る。
 
クリュニー修道院はベネディクト修道会から派生した。
アキテーニュ公ギョームとマーコン候ギョーム・ピオにより寄贈された土地に
クリュニー修道院が建てられる(ブルゴーニュ地方)この辺はちょっとややこしい、
アキテーニュは西側、ブルゴーニュ地方はドイツよりの東側にあるので要注意。
文献では信仰心からこのような寄付が行われたことになっている。
土地はローマに寄進されたものであり、
その際の契約書には5年おきのローマへの徴税についても書かれている。
 
文献上では信心深い貴族二人による教皇への"本来の信仰を目的とした"教会への
回帰を図るために寄進されている。
 
事実、フランスは危険にさらされていた。
アキテーニュ地方は沿岸部を含むため、ヴィキングの末裔、ノルマン人や南からはジブラルタル海峡を越えてやってくるサラセン人の恐怖が付きまとっていた、
 
つまりは修道院の防衛と修道院に集まる富を守るのが目的だったのだ。
 
教皇側は買収されたも同然だったため、この修道院に対して介入することを避けたため、
この修道院は独自のルールを設けることに成功する。
 
ここで順を追って修道院の歴史を書き出してみようと思う。
 
9世紀:土地の寄進、
894年修道院長選出法発布、修道院長の選出に教会外の者は関わってはいけないというのもの。
 
10世紀:初代修道院長ベルノー、ベネディクト派の修道士として、時の流れに沿って戒律の厳守運動に関わった人物である、時代は再び腐敗教会、戒律を守るため、貴族など聖職者以外の介入を厳しく拒否した。
 
11世紀:戒律は守られ続けるが、修道院長オディロンにより修道院内のルールにいくつかの変換が見られる
上下関係をはっきり位置づけし、その地位に対して特権を与えるなど、オットー一世の保護のもと、徴税の免除以外にも通行税や道具の使用税などを設け最も潤っていった時期である。
更には他修道院への見張りまで行った。
最も栄えた時期であり、この修道院から数々の子修道院が建てられ、フランス国内以外にもイギリスやイタリアにまで広がっていった。
同時期にはこのような修道院内の腐敗に新たな宗派を派生した修道会があったことも念頭に入れておくべきである
 
12世紀:修道院長が変わり(ユーグ・シムール)、クリュニー修道院より枝分かれした子修道院の数が増え続けるが、勢いがひとまず止まる、ローマ皇帝は名ばかりになり、政治的権力はドイツからフランスへと移ってゆく
さらに教皇庁アビニョンへ移動されため、敵対したいた他修道院との関係が難しくなるが、その後の修道院長により何とか経済的危機を乗り越え、1157年に着任したポン修道院長により、以前しかれたルールや所有地が所持が危うくなる。本来の意味での最初の危機が訪れる序章となった。
 
それではこの修道院の特筆すべき点とはなんであったのか。
 
修道院長の自由選出: バチカンにから派遣されたり、地方権力者により選出されず、
院内のみで選出することができたため、修道院長の権力は強くなる。
 
教会関係者以外の不可侵権: 修道院以外の介入を受け付けなかったことは権力強化と
地方権力者に対する徴税免除、そして収入としての通行税、道具使用税などの自由設置は
金銭的な潤いをもたらす。
当時の修道院では農民や地方の住民に橋や馬車用の道に対して通行税を、
粉引き小屋、農機具のレンタル料を徴収することが可能であったことを書き加えておく。
 
審問権:更には裁判権の行使を持ち合わせていたので、
地方司教など、目の上のこぶを退位させることも可能であった。
 
不可侵が守られことは修道院にとって都合が良く、加速する教会権力を地方貴族は抑えることができなかった。
 
そういった修道院の行き過ぎた成長を教皇は利用した。
地方に送り込んだ司教はクリュニーほど教会の存在を守れる度量がなく、
教会と関係なく権力を持ち始めたカペー朝に、地方に根付いた権力、
つまりクリュニー修道会の存在が心強かったのだ。
 
11世紀の後半にはグレゴリウスの大改革が起こり、
聖職者の妻帯及び愛人保持や聖職売買を禁ずる条例を発布、
この改革では世俗の権力者による司教、修道院長の選出(推薦)の禁止も含まれている。
 
しかし、クリュニーにより建設された新たな修道院はヨーロッパ中に広まりつつあり、
ブルゴーニュ地方だけの問題でなくなってきていた、この事態は不安材料である。
本来は司教によりまとめられるべきであり、各地で不可侵入権を持ってしまったクリュニー修道会に
教皇も頭を痛めたが、教皇自体がクリュニー出身であったことや、
この修道院の豪華すぎる建造物に異を唱えるもの、教皇庁の移動に伴い、
この問題も自然消滅の道を辿る。
 
 
ブルゴーニュにあった親修道院とその後、発展し、建設されていった修道院との関係は
至って強いものであった、上官より直接の指揮が執られた。
この子修道院は既に存在していた修道院を傘下に入れることでも実現した。
このシステムからは脱出することもできたが、良い結果を招くことはなかった。
 
修道院の次に彼らによって副社長のような存在であった5つの修道院があり、
そのうちの4つはフランスに1つはイギリスに置かれていた。
 
 
ここで私的な感想を入れさせていただく。
ベネディクトの戒律を守るため、修道院を一つの宇宙として捕らえる動きや
世間には周知の事実であった聖職者の腐敗を改革するために組織化した修道会であったが、
農民から税金を取り立てたり、聖堂や宝物室に数多くの貴金属を蓄えたりと
キリストの教えとはあまりそぐわない行為が行われていたのだが、
それよりも目立っていた教会腐敗のため、それ自体は問題として上がっていない。
 
何人かの清い心で改革を試みた修道院長がいたことや
世俗の権力者を不可侵入にしたことは教皇には都合が良かったが
10世紀末にはそういった富を蓄える団体に疑問を感じた尊い修道士たちにより
チェルトーザ修道会やシトー修道会が発足される。
 
実際、私の資料であるペコー著"中世の修道士と聖職者"にも
この混乱が著しく見られる。
 
クリュニーは本来、善か悪か、教会改革はやり遂げたのか・・・・、
著者自体少々飲み込めない部分があるようにすら感じる。