ナポリの小枝とノルウェーの切り株

ノルウェー、ヴィーガン、猫とおそ松さん

中世のガラス工房

産業革命以前、ガラス製品が高級品であったことはご存知の方も多いと思う。
 
中世においてもガラスの需要は"装飾品"であった。
 
今でこそ、大量生産され、ビー玉を武器にする不良すら現れる時代になったのだが(そして過ぎ去っていった)、
そんなガラスがなぜ高級であったのか?
 
それは製造過程における希少性と
当時の技術では扱いにくいことが要因と思われる。
 
 
まず、製造に当たって多大なエネルギーが必要となる。
ガラスの溶解温度は1700度、この温度に達することは
文明の発達したローマでも不可能であり、その技術が消えた中世では到底
達成できない温度であったが、ガラスの性質として500℃から徐々に組織が液化し、
形を変えることが可能であったため、吹きガラスの技術を利用して作り上げることができた。
 
木材もクリ、カシなどの固く、組織の密度が濃いものを半年以上かけて
乾燥させ、利用前には溶鉱炉の予熱を利用して更に乾燥させるという方法で、
素材に含まれる水蒸気を押さえ、1100℃まで上げることができた。
 
ちなみに100キロのガラス製造に当たる、消費された木材は40tとも言われている。
溶鉱炉を1100℃に保つには一時間に130~150キロの木材を
燃やす計算となる。
よって、森林の伐採が行われた。
 
 
原料は二酸化ケイ素(70%)とガラスに色素を与える金属
鉄(緑)、ニッケル(青、紫)、金(赤)など、透明なガラスを作るにはマンガンを利用したが、
化学変化の過程で酸化させなければいけないため、
溶鉱炉に空気を送っていたと思われる。
 
ガラスの溶解温度を下げる二酸化カルシウム、リンやソーダマグネシウムなどは
30%前後、この数値を超えるとガラスの耐性がもろくなるというリスクが生じる。
 
少量にカリウムを加えることにより、ガラスの屈折を多くし、
つやが加わる。
 
 
ガラス生産に当たり、これだけのエネルギーが必要となるので
当然、節約好きの中世に生きた職人さんはこの溶鉱炉
ガラス生地の製造のみに使うわけではなく、
勿論、吹きガラス加熱用に使ったり、形を整えた後に行う最終的な加熱にも利用する。
 
溶鉱炉の形は文献の挿絵や遺跡のガラス工房跡により、
円形が多かったことがわかっている。
それも2階建てになっており、生地作りに砂を投入する一階と最後の仕上げをする二階、
そして小さな小窓が付けられており、そこから吹きガラスのためのガラス玉が加熱されていたと思われる。
 
イタリアの中世におけるガラス工房はジェノヴァ近郊のモンテ・レッコや
フィレンツェ近郊のジェルマニャーナ、ヴェネツィアムラーノ島
中部イタリアのベネディクト派修道院、サン・ヴィンチェンツォ・ヴォルトゥルノなどが挙げられる。
 
どちらも大きな溶鉱炉にガラスと同じ性質の破片がこびり付いていた。
近代、ルネサンス以降はその工程がシステム化し、製作しやすい状況となり、
金額もぐっと下がり、よほどの芸術品でもない限り、庶民(中産階級)でも手に入れることができた。
中世に比べて、文献やその工房を描いた作品が数多く残されていることから、
かなりの需要と生産が行われたと見られる。
 
 
ヴェネツィアムラーノ島は現在もガラス製品で有名だが、
この地域一帯では中世、一歩先に進んだ技術を持っていた、
その技術を外部に漏らさないため、この島に工房を開き、職人を閉じ込めていたそうだ。
確かドイツのマイセン焼きにも似たような歴史があった気がする。
 
ちなみに中世から既に、ガラスのリサイクルが行われていた。
一度形成されたガラスは扱いやすく、そのほかの薬品などを分配する必要や
最初の工程を省けるため、割れてしまったり、使わなくなったものなどを集めて回ったそうだ。
 
 
それでも、産業革命に入るまでは
教会のステンドグラスや貴族たちの食器または装飾品として使われるのが主流であった。
 
 
 
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ベルゲン博物館展示されていたステンドグラス、既に近代に入った後の17世紀末のもの。
聖書のいくつかのシーンと、出資者の名前が刻まれたガラス細工の窓。
これが何処にあったのか、出資者は誰か、残念だが、パネルを読忘れた・・・。
 
フィレンツェ郊外のジェルマニャーナの工房では事務所を設けるほど
注文を受けていたようだ。
工房は一つの立派な建物の中で事務所と工房に区切られた空間があり、
さらには建物の二階部分に燃料となる材木が置かれた。
 
生地を作る最初の工程は野外の粗末な屋根の下で行われたが
それ以外は建物の中で、それも事務所つきとは
近代に先駆けたシステムである。