ナポリの小枝とノルウェーの切り株

ノルウェー、ヴィーガン、猫とおそ松さん

古代と中世の間、そのときローマ人は?

最近、空腹に耐えながらも気になって読んでしまった本がある。
 
ナポリのあるカンパーニア州山間部、ベネヴェント県とアヴェリーノ県、
そして、私の住む海辺の街、サレルノを結ぶ3つの地域に
テリトリーを築いたロンゴバルド族とその土地に逃げていったローマ貴族の生き残りのお話。
 
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イタリア、カンパーニア州(左)と
 
ナポリ、ベネヴェント、アヴェリーノ、サレルノ
ナポリよりローマ側にあるカセルタの5県(下)。
 
山間部のベネヴェント県とアヴェリーノ県は現在でも
森林を利用した放牧や農作物が作られる食料庫である。
地理的に守られた土地であるため、交通の便も悪く、
現在もなお、100年前の生活が営まれているといっても過言ではない。
 
 
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この記事を書くに当たって、標高表示と立体地図を交えての説明が好ましいのだが、
土地的にマニアックな地域名だけに良いデジタル資料が見つからず、
ゴーグル・アースの力をお借りすることとなった。
 
 
 
今回取り上げるのはアヴェリーノ県にある小さなまち、Pratola Serra(プラトーラ・セッラ)である。
この街にはローマ人の別荘跡と中世前期の教会跡をいう2つの遺跡がみられる。
 
 
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左の地図はアヴェリーノ県である。
今回は地理的要素を含めた説明を要するため、分かりやすいように
川を水色で谷の輪郭をオレンジ色で表した。
 
後で着色した線はあまり正確ではないが、赤い点示したPratola Serra(プラトーラ・セッラ)という土地の地理関係を分かりやすいように彩色してみた。
川の周りは盆地が広がり、事実上谷に守られた土地である。
 
 
 
 
古代末期、中世初期の時代背景:
 
476年、ローマ帝国崩壊後、迫る来るゲルマン民族に民衆は山間部へと非難する。
"街"は強奪の対象であったため、都市部に住むローマ貴族たちは近郊の別荘へと移住していった。
 
当時のローマ貴族はステータスとしてほとんどが都市部に住み、
郊外に別荘を持ち、そこでは奴隷による農作業や畜産が行われていた。
そのため、その別荘へと移り住むのだが、ローマ法は既に通用しない世界である、
奴隷も上下関係を絶って逃亡したり、農作や牧畜用の土地も奪い取られたり、
また、身一つで逃げてきた貴族には生産能力が無いため、
そのまま餓死するものもいたという。
 
 
 
南イタリアでも古代末期(5~6世紀)に街の消滅が見られ、
同時に山間部に新たな街の結成が見られた。
 
その一部として、プラトーラ・セッラは面白い一例である。
 
どうやら非難してきたローマ貴族も、ロンゴバルド族の恩恵を受け、
その伝統と生活が守られてきたようだ。
古代の名残、ローマ人別荘と中世の象徴である洗礼盤付き教会が
同じ地区から特定された。
 
この二つの遺跡は同時期に活躍していたわけではないが、
その土台からは建物の方角付けが同じであることが分かっている。
 
 
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こちらがそのダブル遺跡のある地区。
オレンジの円が中世教会跡、
赤い線がローマ別荘跡、分かりにくいがクロップサイン(植物による地表マーキング)が見える。
 
この教会には十字の形をした洗礼盤、
玄関ポーチが付いた、
典型的な初代キリスト教の様式に
見えるのだが、
それに付け加えるようにローマ別荘のような特徴も持ち合わせている。
 
ローマ近郊のオスティアにある
アルメリーナ広場の遺跡を例にとれば、
想像に容易いのだが、
デジタル資料が無いので、
視覚的にお見せできないのが残念だ。
 
教会奥には半円形のアプシスがあり、その手間にはスコーラを呼ばれる
二つに分かれた小部屋が置かれている。
 
この2つの特徴はローマ帝国時代に築かれた建築様式に近い。
 
さらには教会の方位もローマ時代の建築方式と同様、
アプシスを東側に建てられている。
 
全身浸水式の大きな洗礼盤は正教会を採用していた東ローマの影響と
初代キリスト教のものであることが伺える、
つまり、まだローマ古代信仰(パーガン)をしているものがいた時代のものであり、
このことから、古代と中世の間の建造物ということが推定される。
 
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奥に見える曲線を描く壁が教会奥を飾った半円形のアプシスである。
 
 
 
中世前期の教会には付き物のお墓も
謎が多く、いくつかは既に金品目当ての者に荒らされた跡もあった。
なんとか残された遺体と副葬品からは水差しや十字架、コインが見つかり、
考古学者たち(って、建築科卒のペドゥート)を更に混乱させた。
 
というのも・・・
 
-水差しは東側、ギリシャの伝統、魔をよけるお守りとして死者と共に埋葬されていた。
 
-十字架はキリスト教徒の象徴だが、金属の板を伸ばして作る十字架はロンゴバルド族のアクセサリーに近く、
そこに彫られたギリシャ文字や持ち主のモノグラムなど、文化的要素に混じり気が見られる。
(東ローマ的要素+ゲルマン的要素)
 
-コインの埋葬はローマ時代からの伝統であるが、元を辿れば三途の川でカロンに渡す船賃用である。
(ローマ古代神的要素)
 
そのほかにも金の刺繍入り遺骸布など、贅沢な副葬品が見られるのだが、
その持ち主、この教区の住民が、
どうやら東ローマ帝国の影響を持つローマ人の貴族であるようだ。
 
 
時代背景からしてローマ貴族が地主となり、贅沢な暮らしを送るのは無理であるはず。
 
そんな無理も可能だったのが、プラトーラ・セッラの貴族である。
 
ロンゴバルド人がベネヴェントから侵入すると、
地理的に恵まれた地域だったため、城壁を築かずとも防御することができる。
それが東ローマ側の目を逸らし、更なる土地を求めてサレルノ侵攻へと山伝いに行くことができた。
 
また、以前も書いたとおり、この民族は地元民に極力迷惑を掛けない工夫をする。
ローマ貴族が地主でいられたのは、彼らの配慮からでもあった。
ロンゴバルド族が新しい支配者であったのは事実だが、
税金の収支を良くするため、土地の取り上げをせず、
彼らの産業を促進した。
 
 
しかし、彼らの生活が落ち着く7世紀半ばには
区画整理による司教区の移動が行われ、
この教会は廃れ、13世紀まで廃寺となる。
 
中世の始まりとは、建築物から見て取れるように
古代に栄華を誇ったローマにすがりつつも
新たなキリスト教的要素の採用、
 
特に不安定な時代は神にすがるものも多く、
教会は民衆に欠かせない存在であったこと、
 
これらの要素が混乱してた時期であった。