ベネディクト会から新たな動きとして頭角を現す修道会、
クリュニー会、ベネディクト派観想修道会
シトー会、ベネディクト派隠者修道会
チェルトーザ会、禁欲隠者修道会
ベネディクトの戒律は観想修道会で好まれ、
アウグスティウスの戒律は隠者修道会で適用された。
というわけで10世紀から13世紀にかけて、教会改革の波にのり、
いくつかの現在に至る修道会が設立されていった。
その中でも民衆の教会不満を和らげるべくして現れた托鉢修道会。
フランチェスコ会(1224)
ドメニコ会(1216)
フランチェスコ修道会以外はフランスに本拠地を置くものである。
ここでまだ触れてはいないが、イタリア出身のベルトルド修道士により始められ、
カルメニターニ修道会 というものが存在するので少し触れておく。
ホノリウス3世により1225年、認可が降りている。
その後、聖地は再びムスリム人の手に渡ってしまったため、
彼らは観想修道生活を行ってきたと同時に伝道活動もしてきたため、
いくつかのルールにおいて変更が必要となった。
記録し、その正式名称も"聖母マリアのカルメル山兄弟修道会"とした。
この修道会は事業の拡大はせず、一つの修道院で収まっていたのだが、
補足:
アウグスティーノ修道会
アウグスティーノ修道会という名の下にまとめられた修道会は
アウグストの戒律を持つ托鉢修道会である。
これは1256年、教皇アレクサンデル4世によりまとめられた。
托鉢修道会とその後のヨーロッパ
彼らの仕事は大きく3つに分けられる
伝道
説教による救済
慈悲
教皇やフランス王がスポンサーとなり、モンゴル付近まで布教にいくのだが、
その裏には腹黒い政治的攻略が絡んでいるのも忘れてはならない。
彼らの精神は女子修道院の発展も手助けしている。
同じ修道会の第二会として、説教や聴罪をするシスターの存在、
そして第三会としての在家修道会という存在をも生み出している。
今まで、手の届かない存在だった聖職者様はもっと身近になり、
信仰心をもって団結力を高め、グループを形成することで更なる信仰心を高めるというものであった。
彼らの存在は教会における"町内会"の役割を担っていた。
この時代は絵画史にも変化が見られる。
13世紀の画家、ジョット、チマブーエなど、柔らかで表情のある人物像を
祈りや聖人列伝にちなんだテーマで描き、
以前の固い表情であったビザンチン美術から大きく変化した歴史を残した。
神学、宗教学もまた、この時代盛んに研究が行われたのだが、
伝道、説教にあたり、歴史や宗教史を知らずに行うことはできないため、
修道士の間で熱心に研究が行われる。
出現し始めた大学で神学において客員教授、又は常任教授として活躍したのも
この2つの托鉢修道会のものが多かった、なかでもドメニコ修道会では
学問を修道院内で学ぶことが規定にあるので、
教授として、または執筆者として後世に名を残したものも多い。
ローランド・ディ・クレモナ パリ大学神学教授、パリ司教により派遣される
また、それとは逆にジャン・デュ・ジレは教授であったが、勉学を極めるため、ドメニコ修道会に入門する。
大学の教壇は托鉢修道会の修道士たちで埋っていた。
その中でも有名なトマス・アクイナスについて少し触れておこう。
Thomas Aquinas
ドメニコ修道士であり、名門貴族出身、パリ大学で神学を取得。
その後、神学とアリストテレスの哲学を結び付けた思想を発表、
わかりやすい教授法でセンセーションを起こした。
神学大全などの百科事典の執筆でも知られている。
托鉢修道会は庶民に近い視点を持つ一方、
説教、伝道するには勉強する必要があるといった概念から
勉学が昇進された。
この形式の修道会が教会に貢献した部分は大きい、
ここに来て少しだけ、教会不信がぬぐわれようとしているが、
後のルネサンスでは更に人間に戻ってしまう聖職者が出現する。