ナポリの小枝とノルウェーの切り株

ノルウェー、ヴィーガン、猫とおそ松さん

シトー派修道院

ベネディクトの戒律、ウィットビー教会会議、アーヘン条約、
 
9世紀に目立ち始めた聖職汚職から教会を救った
クリュニー修道会、この修道会はいくつかの対策により、
保護、そして教会に大きく貢献する一方、
現世との繋がりが断ち切れずに少しずつ富を蓄えていった。
 
本来慎むべき豪華な修道生活や金品の贈答品受け取りに
聖堂には必要のない装飾品・・・、
 
十字軍遠征後、教会関係者以外にも聖書を読む動きが始まるのだが、
この修道院の経営に疑問を抱くもの、またはもっと神との理解を深めるため、
隠者生活への回帰が見られた。
 
この時期(11~12世紀)に出現した新しい修道会である。
前の記事で触れたように
チェルトーザ修道会、グランマン修道会、カマルドリ修道会など
単独で行われていた隠者生活を集団化し、厳しい戒律を設けた修道会である。
 
ここにもう一つ、現在に至る修道会の存在がある。
 
シトー修道会である。
 
フランス、ブルゴーニュ地方、現在のコート・ドール県、シトー(Citeaux)に建設された修道院なのだが、
その創立については少々なぞが付きまとう、というのも文献がないことや
創始者が不確かなことにある。
 
鍵となる3人の修道士から話し始めよう。
 
ロベール・モレスメ
2つの修道院の院長を勤めた後、本質を求めモレスメにて隠者生活を送る。
ここに修道院を建設すると、クリュニー会のルールからヒントを得た戒律を設ける。
 
隠者と集団生活をいうほぼ正反対な2つの要素はこの修道院を二分化に導いてしまう。
 
ロベールも更に自分探しに修道院を出て隠遁生活を再開する。
 
3年後、修道院に戻ると新修道院長としてオーブリーが、
そして流れの修道士ステファン・ハーディングと面会する。
 
この2人と共にもっと自分のスタイルにあった修道院を築くため、
モレスメを後にし、暗い森の中に新しく修道院を建てる、その地がまさしくシトーと呼ばれた土地であり、
新しい宗派の誕生でもあった。
 
新しい修道院を立てる際、修道院長が自ら指揮する修道院を捨てるという行為は少々スキャンダルである。
 
収容人数の問題や子修道院として新たに建てることは今までもされてきたのだが、
捨てるとなると、バチカンも黙ってはいない。
リヨンの大司教であったユーグ・デュ・ディーにより議会が開かれる(ポート・ダンセル会議1099)。
ここではロベールのモレスメ帰還が決議され、
あとの二人はシトーの"新"修道院に戻ることが約束された。
 
この当時のシトーは未だに厳格なルールが確立していなかったことや
施設が整っていなかったことなど、問題は山積みであり
ここに入門する修道士たちはこの修道会に対してあまり意味を理解していなかったが、
2代目の修道院長となったオーブリーは何とか目的を達成する。
 
3代目院長はイングランド修道士ステファン・ハーディング、
この時期、後に大きな貢献をするベルノー・クレルヴォーが入門、
実際、火が消えそうだった修道会をその熱意で盛り上げていく。
 
ルノーと同期であったほか修道士も名門の出身であり、
これをきっかけに貴族から土地の寄贈を受け、
事業拡大が行われた、その一つがクレルヴォーにあり、その一代目修道院長に任命されたのが
ルノーであった。
 
実際シトー派について語るとき、
土台を築いた3人よりベルノーの名を聞くことの方が多い。
 
さて、ここでキリスト教における現世を捨てるという思想について触れておく。
 
隠者生活の根本:
人の寄り付かない地域に何も持たずに出かけ、そこで一定期間を過ごし飢餓、精神衰弱との戦いを試みること。
睡眠欲以外の欲求は満たされず、その状態で神に祈りを捧げることにより現世の虚しさを見出しすなど、
本来の幸せ探しに少々極端な形式をとったもの。
 
隠者生活をすることによって得られるもの:
物質的、精神的な欲からの脱出。
 
シトー会では見習い修道士を小部屋に押し込んで、修道院内の労役以外は
すべての時間を自室で過ごすことが義務付けられていたが、
チェルトーザ会では孤立した生活を虐げたそうだ。
最初の三ヶ月は食事が差し出される以外は自室(というにはお粗末なくらいの小さい部屋)で
祈ること以外は出来ない。
例え死に至ろうと、この期間、部屋の鍵を明けられることはないのだ。
その修行に耐えたものでさえ、その後1年にわたる更なる閉じ込め期間を得るが、
この期間は不都合が生じれば、助けを求めることが出来た。
ついでに平均寿命は30代、修行の過酷さ、そして貴族のもてあました病弱な息子たちも
預けられることが多かったのでこのような平均寿命が割り出されたと思われる。
 
シトー派ではベネディクトの戒律で一番強く唱えられている部分
"服従"を重視している。
ベネディクトはこの言葉を集団生活をよりよく過ごすために書き記したのだが、
シトー会では"自己評価を低くするための手段として"使われている。
 
彼らにとって美徳とは俗世間を捨て、その欲とは遠いところの住人でいることである。
 
禁欲、祈り、この二つを言葉は彼らが好んだ、好むべきであった生活規則であった。