ナポリの小枝とノルウェーの切り株

ノルウェー、ヴィーガン、猫とおそ松さん

隠者生活再び

6世紀後半に発生したべネディクト派修道会は
教皇グレゴリウス1世の力添えもあって勢いのあった
コロンバヌス派のアイルランドケルト教会系の修道院を押しぬけて
西洋キリスト教の基本戒律として定められる。
 
9世紀頃、地位を利用した教会汚職に腐敗聖職者が目立つようになると、
教会改革が叫ばれる。
 
そこに出現したのがクリュニー修道院である。
 
信心深い貴族により土地の受け渡しと教皇への徴税を約束し、
任命された修道院長により、その戒律は守られた。
 
腐敗問題には世俗権力者の介入の禁止や上下関係及び、同系列修道院への積極的な介入、
布教や経営に必要な経費を通行税、道具の使用税でまかなうなど、
独自のルールを儲け、バリアを張ることにより"戒律"を守ることに成功した。
 
しばらく栄華を誇っていたが、12世紀には時代背景から力は衰えていってしまった。
 
 
 
今回はクリュニーとほぼ同時期に再出現し始めた隠者の話である。
 
隠者というのは人里離れた(時には人も寄り付かないような)ところで祈りと懺悔、断食を行い
神との対話を求める人々のことである。
 
クリュニー会は集団生活であるチェノビティズモを行っていたことに対し、
こちらはすべての接触を断つという修行僧生活であった、
この生活はエレミティズムといい、こういう形式の僧は既に3世紀ごろから存在していた。
 
教会の腐敗が原因となり、起源に戻ろうという運動を起こしたのであろう、
しかし、この隠者生活も集団生活の中の隠者という形式に変わっているので
ここで少し補足を。
 
こういった修行僧が住む修道院はエルモと呼ばれ、人里を離れたところに建てられ、
滅多なことでは外部の人間との接触がない、山の頂上や中腹、切り立った崖の上にあるため、
たどり着くのも命がけであったりする。
ここでは数多くの個室(チェッラ)があり、祈りを捧げるため閉じこもる時期がある。
 
 
さて、ここで鍵となる人物がいる。
 
ピエール・ダミアーニだ。
グレゴリウス7世と共に教会改革を行い、禁欲をモットーにした修道院を建設、
ベネディクトの戒律を更に厳しくしたルールを確立するが自ら修道会を開いたりはしなかった。
 
彼は貴族階級出身ながら貧しい生活を送り、修道士であった兄のもとで少しずつ知識を身に付けていった
勉学に長け、その後、中世7教科を習得、そして教授として教鞭を振るが、
30歳を目前に修道生活に入る、どの修道会に入ったかは定かではないが、
クリュニー会でないことは確かである。
 
彼が生活していた修道院は地理的にたどり着くことが難しい土地にあり、
ここで隠者のような生活を送り続ける。
教皇ステファノ9世に召集され、枢機卿及びオスティア司教に任命され、ローマに赴くのだが、
隠遁生活中に養った彼の能力は教皇の相談役として、教会改革を手助けする。
そして後に教皇となったグレゴリオ7世と叙任権問題に取り組んだりといくつかの功績を残している。
 
この集団エレミティズムは西洋世界に広がり、いくつかの修道会も派生した。
 
カマルドリ修道会
集団生活の西方教会と隠者生活の東方(この場合はパレスティナなどの中近東を示す)教会をあわせた
最初の修道会である。
1012年ロムアルドにより南トスカーナに最初の土台が築かれる。
彼の弟子の一人としてピエール・ダミアーニがいたことも付け加えておく。
ナポリに同名の地域があるのだが、その名の通り、カマルドリ修道院があった場所であった、
建物は現在も残されているが、ブリジダ修道会より運営されている。
 
グランマン修道会
1074年、ステファノによりグランマン(フランス中部)に築かれた修道院及び修道会。
祈りと懺悔と瞑想を日課とした修道会は創始者の死後、フランスやイギリスで公布していった。
 
チェルトーザ修道会
1030年、ベルノー・モレムスにより築かれる。
時代は教会大改革、隠者生活に興味を示していたため、
大司教の話が持ち上がった際には自らそれを拒否した。
 
しかし、彼の理想とする隠者生活は極端な禁欲生活ではなく、
必要に応じた個人のための祈りを重視するものであった。
 
この修道会はその土地の司教と意気投合し、
生まれたての修道会の保護を買って出てくれるなど、幸運にも恵めれ、
グラン・シャルトルーズの土地が差し出される、
そこに建設されたのがチェルトーザ会の記念すべき母修道院となる。
 
突然、教皇ウルバヌス2世から召喚をうける、
この教皇はレイムスで教鞭を振るっていた頃の生徒の一人であった。
ウルバヌス2世は彼を南イタリアへ派遣する、当時ノルマン人が座っていた土地である。
この南イタリア出張は元々孤立していた修道士たちを更に孤立させる結果となり、
仕方なく、監督役の修道士を任命することになり、これによって解散は免れたが、
修道会の成長は止まったままとなる。
 
一方南に派遣されたベルノーはイタリアに修道院を建設した。
 
この修道会のルールはその百年ほど後に当時の母修道院長グイゴにより書き残されている。
ベネディクトの戒律と根本を異にするものが見られることが特徴である。
 
修道会の目的は聖ヒロエニムス他、古代に隠者生活を送っていた聖人にインスピレーションを受け、
隠者生活を目的をして発足された。
→隠者生活自体がベネディクトの戒律には全く見当たらないエレメントである。
 
修道院には2つのカテゴリーの人間が住む、修道士と助修士(兄弟)、または修道士志望のもの。
ここでは集団生活により、各自の家事、仕事に従事すべきである。
修道士以外はこの修道院の弟子とはみなされず、院内の雑務に従事すべきである、
また、聖職者は白い修道衣の着用及び隠者生活を義務付ける。
 
見習い一人につき小部屋を与え、仕事やミサ以外の時間は部屋で瞑想、又は祈りをすること、食事も同じく自室で取ることを義務とする。
 
プリオーレ、上官
一言で言ってしまうと修道院長である、この仕事は経済的な面の工面も任されている。
上官には絶対服従という部分はベネディクト会と変わらない。
 
この修道会では"静けさの中に見出す真実"である。
外の世界から隔離され、今まで周りにあった何てことないものの有り難味を
”聖書の言葉と共に”知るということだ。