ナポリの小枝とノルウェーの切り株

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ベネディクト修道会 発展そしてクリュニー修道会へ

ベネディクト修道会は6世紀にイタリア中部で生まれ、西洋キリスト教世界における修道院生活の根本を築く。
 
後に教皇となり、ベネディクトの戒律を修道院の基本概念に制定したグレゴリウスもまた、
貴族階級であり、執行官になるべき教育を受けたが、神に身を捧げること決意し、家出して修道生活にはいる、
その後、その勉学に励む様子が買われ、先代の教皇ペラギウス1世により
教皇の後任を任される。
 
元々、権力にあまり興味のないグレゴリススは教皇になった後、
その責任に悩むが、ベネディクトの残した戒律や彼の修道生活のスタイルに感銘を受け、
これを修道院の基本概念として定める。
 
当時、イングランドアイルランドガリア(現在のフランス)などでは
コロンバヌスによる戒律の修道院が存在していた。
 
6世紀の終わり、教皇グレゴリウス1世(大グレゴリウス)により、
当時パーガン、またはセミ・パーガン(洗礼は受けたがその意味を良くわかっていないもの)
であったイングランド使節団を送り、カンタベリーに司教区を置く。
 
その後、多大な人気を誇るコロンバヌス派とベネディクト派の
二つの戒律が存在し、のちのウィットビー教会会議(664)で対立する2つの宗派の統一を
話し合いで解決する。
ここでベネディクトの戒律が制定されるとその後25年、
イングランド内にベネディクト派の修道院が数多く建設された。
その影には今まで信じてきたもの、礼拝の形式、復活祭の日付などを変えなければいけなくなった、
イオナ修道院アイルランドウェールズ系列の修道院があったことも忘れてはならない。
 
大グレゴリウスの大プッシュで拡大していくベネディクト修道会、
8世紀にはいくつかの変換を余儀なくされる。
 
イタリア中南部にあるファルファ、サビーナ、サン・ヴィンチェンツォ・アル・ヴォルトゥルノ
(以下、SVV)修道院が建設される。
 
ベネディクト自らにより建設され、晩年をを過ごしながら戒律が書かれたモンテカッシーノ修道院
6世紀末、ロンゴバルド族により崩壊に追い込まれたが、8世紀には見事復活した(その後9世紀末にはサラセン人により再び壊滅的打撃を受ける)。
 
このようにベネディクト派に勢いが付くとそのほかの戒律を持っていた修道院
戒律の改定、廃止を余儀なくされていった。
 
コロンバヌス派であったボッビオ修道院8世紀前半には
ベネディクトの戒律を受け入れている。
 
南イタリアではビザンチン領であったため、ギリシャ寄りの修道院がベネディクト派修道院と伴に
並列していた、こちらではロンゴバルド族による王国がティレニア海側の土地にあったため、
こういった共存が可能であったと思われる。
 
更にパーガンであったドイツの地方、ザクセン地方にもベネディクト派であったイギリス人修道士、ボニファチョ(ヴィルフリッド)によりいくつかの修道院が築かれる、その中でも神学に長けた文才を送り出したフルダ修道院
心に留めておきたい。
彼がこうした成功を収めることが出来たにはスポンサーであった
フランク族カロリング朝創始者、カールマルテルがバックが大きい。
無償で援助をするはずもなく、フランク王の思惑はザクセン領奪取のためのイントロであったのだ。
 
 
政治が絡むと修道院の数は増え続け、勢いを増していったのだが、
その後、信仰心の厚いカール大帝玉座に着くと、
修道院に対し、かなりの干渉をするようになる。
 
彼は修道士たちが必要以上の権力を持つことに対して、
歯止めをかける見張りをしていたのだ。
文化を愛した皇帝は修道院に学校を開設する。
ここでは教育と写本が行われ、数多くの文化人の育成を促進したが、
肝心なベネディクトの戒律にはそのような学校として機能する修道院についてはまるで触れていない。
つまり、守られてきた戒律はこの時代に入り、少しずつ変換のときを迎えたというわけだ。
 
9世紀にはアニアーネのベネディクトによりベネディクトの戒律を厳守した修道院が建設される
816年、アーヘンにて教会会議が開かれ、戒律やルールの再度見直しが行われた、
 
カール大帝の退位と伴に政情は再び混乱をもたらし、
領地争いに修道院及び、宗教的活動にも支障がでてくるのだが、 
それを後押しするように新たな強敵侵略者、ノルマン人、サラセン人、フン族
彼らはキリスト教徒ではなかったため、修道院を標的に襲い掛かった。
 
10世紀にはいるとそんな混沌とは裏腹に、新皇帝オットー一世による教会自由権
再び、教会に光が訪れる。
ここではベネディクト会から派生したクリュニー修道会が挙げられる。
この修道会はベネディクト会の最高峰を極める。
 
と言い訳で次回はクリュニー修道会について