この二つの教会は政治的に二分され、いくつかの道のりを経て、組織化に違いが見られる。
統一はむづかしく相互破門で決着をつけたというものだ。
ローマの下、東西に分かれて政治を行い、ゲルマン人の大移動により
崩壊した西側と苦しい状況が続きながら何とか生き延びていった東側。
コスタンティノーポリを首都とし、イスラム勢力に押されながらもなんとか成り立っていたのだが、
といのも西方は大グレゴリウスによるベネディクトゥス修道会の基本理念を正当化するなど、
独自の発展を遂げていたため、東方との違いが広がり、収拾が付かなくなっていたのだ。
歴史的事件にしてはどこかのオフィスで見られるような一風景のような発端であった。
1、ここで出てて来るのがフィリオクレ問題である。
"精霊は父なる神と子により発せられる"
という一つの節だが、このマーカーを引いた部分を正教会が削除したなどと言いがかりをつけたのである。
私の本はイタリア人により書かれたものなのでこの問題についてあまり深いところまでふれていない。
残念ながらウィキペディアで調べさせてもらった。
聖神゜が父からのみ発するとする文言を用いる東方教会と、聖霊は父と子から発するとする文言を用いる西方教会との間の論争において、「東方が勝手にフィリオケ(子より)の語を削除した」と強く主張し(実際は西方がフィリオケを後代に付加えた事は、現代の西方教会は認めている)
2、カトリックとの区別化
総主教であったミハイルはローマとの違いを確立すべく、
自分の司教下に置かれた東方教会に厳しいルールを課した。
- ラテン語の禁止
- 正餐にはイースト発酵のパンを用いる
- フィリオクレについて、マーカー部分を全く無視する
など、教皇に対抗した態度を見せた。
しかし、この東西破門とは枢機卿ウンベルトによるものが大きく、
正式な文書が届く頃には時の教皇、レオ9世は既に亡くなっていた。
それが少しずつ北上する恐れがあったため、教皇、総主教ともども
その対策をすべきであったのだが、こういった些細なことから事件に発展し、
相互分裂という事態を招いてしまった。
その後、西側はクリュニー修道院により教会拡大への貢献、
新しい宗派の誕生と発展を遂げていく。
そこにはベネディクト派のルールに従った生活基準以外の宗派も見られた。
それまでの修道院及び、教会関係者の生活は聖書の登場人物たちである
"預言者"の生活が理想とされていたのだが、この時代にはそれにも変化がおとずれ、
"十二使徒"の生活が理想とされた。
聖ロスムンドにより始まったカマルドーリ修道会や
聖ブルーノのチェルトーザ修道会などがあげられる。
そんな中、忘れてはいけないのが十字軍遠征である。
この話題は次回。