ナポリの小枝とノルウェーの切り株

ノルウェー、ヴィーガン、猫とおそ松さん

二つの剣

中世ヨーロッパ西側において、2つの権力が存在していたことは既にお気づきであろう。
これを"二つの剣"と称した。
 
それは宗教的な世界を司る教皇と世俗の権力を持つ皇帝をさすのだが、
この時代の2つ剣は両方とも教皇に帰属する解釈がある。
世俗の権力は教皇にあり、それは必要なときに教皇の意思で抜かれるという意味だ。
 
 
 
東ローマ帝国は皇帝の下、教会最高位が決められるという、
意味合い的に全く逆な体系が続けられていた。
この地位は皇帝の雇われ人であり、そのため政治的に利用されることも多かった。
 
西側も同じような事態が起きていた。
 
クリュニー修道院に見られるような大改革を西側すべてにおいてしてしまおうと考えたのが
教皇グレゴリスス7世である。
 
世俗の権力者による高位聖職者任命対し、介入を禁ずるというものである。
 
彼は見張りの使節団を遠方へ送り、地方の権力者の反対に遭いながらもこの政策を続け通した。
皇帝に任命されていたはずのハインリッヒ4世はその意見を無視して司教を任命し続け、
更には教皇の廃位まで宣言しようとした、
 
これが日本の歴史教科書で書かれているカノッサの屈辱事件の始まりだ。
 
教皇は皇帝に破門をいい渡すと、トスカーナ州にあったカノッサの城に立てこもり、
身の確保を図る。
一方、ハインリッヒの株は下がり、近隣諸侯からの弾圧が強くなったため、
教皇に頭を下げることとなる。
破門の取り消しが行われると、凝りもせずにまた同じ過ちを繰り返し
対立教皇を立てローマ教皇と敵対関係になるのである。
 
ここで成立したのがヴォルムス条約(1122)である。
 
聖職者の任命は教会が取り仕切るが、物質的なもの(土地や財産)は諸侯が取り仕切るという内容で決着が付いた。
 
しかし、皇帝の野望というものは衰えを知らず、イタリアを制覇する動きを見せ始める。
 
フリードリッヒ1世(1123-1190)だ。
 
スワビア出身の皇帝で混乱のドイツ領を平和に収めた脳みそを使った政治と
力で憧れのイタリアを我が物にしようとした者だ。
彼の極度のイタリア好きにはドイツ諸侯初め、教皇、北イタリア諸侯より
反感を買い(遠征が多く不在がちであったため、地元の政治にはお留守になっていることが多かった)、
破門を言い渡されるが、既に居場所をなくしていた皇帝は平和条約を結ぶことで
命の危険を免れる、息子であるハインリヒ6世を南イタリアを仕切っていたアルタヴィッラ家と婚姻関係を結ばせ、
ここでイタリアを手に入れることに成功する。
 
この婚姻によって生まれたのがフリードリッヒ2世である。